「with コロナ」社会とどう付き合うか

hagi に投稿

コロナで亡くなった人は、米英では、累積数で400人に1人を上回った。増え幅は減っているが止まってはいない。日本は約4,000人に一人で10分の1という良い値を出している。止まっていないが、他国と比較すれば増え幅も低い。一方で、昨年9月の時点では、日本の半分以下だった香港、韓国はあっという間に死亡者が増えてしまった。油断すれば、あっという間にやられてしまうというのが現実だろう。米英はワクチン前に全体の半数が犠牲になっていて、ワクチン後、治療薬後に抑制できたものの深刻な状況が続いている。事態はそれほど良くなってはいないのだが、感覚が麻痺してしまっていると考えたほうが良いだろう。

画像

ゼロコロナ指向が無理だと思うと、緩和の声は一気に高まり、民意が反映されやすい場所で状況が悪化してしまう。経済的に籠もっていることに耐えられないケースもあるだろう。香港や上海は、国外との関係が深いから、欧米の緩和の影響を受けて、共産党中枢にはゼロコロナという姿勢を示しながら、実態としてはゼロコロナを捨ててしまって結果的に苦しんでいるように見える。香港は、ある意味で燃やし尽くしたのと、行動変容でピークに比較すれば劇的に改善しているが、半年前と比較すれば、まだとんでもない状況にあるのはすぐ分かる。

ニューヨーク市も気がつくと2ヶ月前と比較すれば感染者は10倍近くになっている。4回目接種は3ヶ月効果が続かないというデータが出ているのに緩和がさらに進む方向にある。

数字を読む限り、収束方向に向かっていると読むよりは破綻に向かって動いていると読むほうが理にかなっている。

2022年4月11日の西浦博教授インタビューでは、非特異的対策※を軽視してはいけないという警鐘が鳴らされ続けているものの、「もういいよ」という声の前に米英型に向かう懸念が示されている。振り返って分析すれば、オリンピック開催という愚行があっても結局ワクチン接種は何とか間に合い、行動変容もあって乗り切ったが、緩みグセはついてしまった。感覚は麻痺してしまってピーク時より死亡者が減っていることに安心してしまっているが、数字を見ればどう考えてもコロナに打ち勝ったなどと言える状況にはない。

※記事からの定義の引用(有料記事の一部ですが一般的な定義と考えて引用させていただきました)

※1 非特異的対策 人の移動や接触に介入して感染を減らす公衆衛生対策。都市封鎖やリモートワーク、イベントの開催制限、接触者の追跡調査などが含まれる。
※2 特異的対策 ウイルスや細菌といった個々の病原体を標的にした対策。ワクチン接種や治療薬の投与がこれに該当する。

中国のゼロコロナ対策は強い非特異的対策に頼っていたが、特異的対策が弱かったという解釈が妥当だろう。mRNAワクチンを使っていないことで、一度穴が開けば、一気に敗れるという現実に直面している。日本は、西浦氏の貢献もあって基本ゼロコロナ政策を成功させることができた。21年の春に破れかけて、一歩間違えれば香港のような事態を迎えるリスクはあったが、ワクチン接種が何とか間に合って何とか食い止めたと言えるだろう。ワクチン接種時期が遅かっただけに3回目接種前なのにデルタ株からの大きな被害も受けずに済んだと考えられる。幸運と言えるだろう。当初のゼロコロナでワクチン接種の開始を遅らせても被害を防ぐことができ、他国の苦しい状況から実施された施策を学ぶ時間も稼げたのが大きいと言うこともできる。私達は、西浦氏に感謝すべきだと思う。もちろん、だからといって西浦氏が常に正しいとは限らないから、盲目的に従うべきではない。複数の科学者のリスク評価を参考にすべきだろう。政治的煽りに乗って失わずに済む命を危険にさらすべきではない。経済起因の被害もあるから、経済学者の意見を聞かないわけにはいかないが、数理モデルを開示できないような予想は扇動でしかない。耳障りの良い予言を安易に信じてはいけない。

2022年4月15日には忽那賢志大阪大教授インタビューで既存特異的対策の限界が示されている。他国に比較すれば、うまく乗り切っているとは言え、得られた対抗策は万能ではなくずっと頼りにし続けることはできないと考えなければいけない。治療薬も役には立つが、後遺症も軽視できる状況ではなく、何とかして感染しないで乗り切るのが好ましいとしか考えられない。

昔の日常を取り戻したいという声は強い。「もういいよ」が通ってしまった米欧の現実も目にしているので、科学的リスク評価は非現実な煽りのように印象操作する声も高まってしまっている。もちろん、科学的な予測だって当たるとは限らないし、リスク評価は本来保守的なものだから、厳し目になるのは当然だから、オオカミ少年と見られやすいのはしょうがない。金の前には、命は犠牲者の数としてしか意識されなくなり、一人を見ることはなくなってしまう。決定権者にはそういう視点が必要で、時に冷酷な判断をしなければいけなくなることもある。

リスクを犯してもやりたいことがあるのは自然だし、その判断の自由は一人ひとりに任されている。全ての人に自由はあって、その自由は制約されるべきではない。非特異的対策を高める努力をする自由もある。強権的な抑止ではなく、個々人の自由意志で命が守れるのがベストだと思う。強権的な方法は破綻する時は壊滅的な結果を招く。自らの個々の意志で、未来を切り開く社会が強いのだと思う。

あきらめてはいけない。