移動の自由が制限されるのは嫌だ

ウクライナ戦争で人の移動の自由が妨げられている。

フィンランド国営鉄道 ロシアと結ぶ長距離列車 制裁で運行停止にあるようにヘルシンキとサンクトペテルブルグの鉄道の運行が止まった。タリンとサンクトペテルブルグの路線は、2020年にCOVID-19で運行停止となっているままである。

しかし、辛うじてバスが運行されていて、それに乗ってロシア経由でウクライナからエストニアに脱出してくる人もいる(関連記事:Ukrainian war refugees deported by Russia entering EU via Estonia)。バスが通る国境の町はナルバ。冒頭の画像は昨年2021年12月4日に自分で撮影したものだ。

感染症による運行停止は残念だがしょうがないと思うけれど、制裁による移動の制限はとても悲しいことだ。

ダブリンのCoworking Europeでは、合宿で2人のロシアの人と同室で過ごしたことがある。エストニアにはロシア語を母語とする人はたくさん暮らしていて、それなりの緊張感はあるとしても一緒に生きている。

30年前はヨーロッパで鉄道で移動していると国境で電車が停まり、毎回パスポートコントロールがあった。通貨も異なっていた。今は、シェンゲン協定圏内に移動はほぼ国内扱いだし、多くの国で通貨はユーロだ。コインの模様が違うなどの差はあるが、国の違いを強く感じさせられることはない。特にCoworkingの世界では越境者を多く見かける。アフリカからやってくる人もいるし、もちろん苦労はあるだろうが、風景に溶け込んでいる。ニューヨークもロンドンもパリも人種の坩堝のようだ。

個々人で見れば、お互いに習慣の違いを許容する努力をすれば一緒に暮らしていけないわけではない。

一方で、どこにでも排他的な人はいる。意地悪な人もいるし、自分でも気づいていない差別もある。そして差別を煽る人もどこにでもいて、誰の心のなかにもある小さな排他性を増幅させることに時折成功してしまう。中でも、愛国心が厄介だ。歴史修正を提唱したり、過去の栄光を正当性の根拠にしたりするが、それは単なる栄枯盛衰の一断面に過ぎない。

ベラルーシ滞在日記を残しておきたいという記事のミンスクでのインタビューで、

──ベラルーシ、ウクライナ、ロシアは同じ民族ですか?

 (男性、女性ともに)「はい」

という下りがある。一人の人間として考えれば、あってはいけないことがおきている。移動の自由があってお互いに行き来をしていれば見た目だけでは区別はつかないのだ。2019年11月16日の夜、ミンスクのホテルのバーでロシアからの旅行者と話したことを思い出す。もちろん私には、ベラルーシの人とロシアの人を区別する能力はない。彼は、ロシアの外での自由な活動を楽しんでいた。今も、時折メールのやり取りをしている。

移動の自由があれば自らの意志で自分が過ごしやすいと思うところに行くことができる。受け入れてもらえればそこで暮らすことになるだろう。個人の視点で見れば、その場所にこだわりたい人はこだわればよいし、移動したい人は移動すれば良いというだけのことである。しかし、権力者や愛国者にとっては移動の自由は大問題である。移動の自由があれば人は魅力のない地を去る。多くの人が出ていく場所は廃れていく。権力基盤は失われ、政府はやがて倒れる。

西側に転向した国の人々から見れば、専制と隷従より自由を好んだ結果が今の状況だ。一人ひとりで見れば、ソ連時代のほうが良かったと考える人もいるし、規律正しいほうが良いと考える人もいるだろう。好まない人にも規律や価値観を強制したければ専制と隷従に向かうしかない。つまり、愛国を標榜するものは、自由意志を弾圧して無理やり人を従わせなければいけないのだ。個人が見える世界は入ってくる情報で決まる。見える世界の多様性を削ることで考え方を一様に染めようとするのが愛国者を主張する排他的な人のやり口だ。しばしば、人はその強さに惹かれて道を誤ってしまう。異なる価値観を受け入れられなり、異なる価値観を有する人を排除するようになり、国や民族といったラベルを貼り付けて個人として見ないようになる。ロシア人などといって括るようになると中にはその属性を持つ人を人間として扱うことができなくなる人も現れる。人間として扱うことができなくなれば、もはや人殺しが人殺しでなくなってしまう。

かつてCOVID-19に関連して、メルケル氏は新型コロナウイルス感染症対策に関するテレビ演説を行った。

次の点はしかしぜひお伝えしたい。こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです。

「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」には移動の自由がない。ロシア、ベラルーシの人たちも金融制裁下にあるので国外への移動の自由は実質的に失われている。仮に電車やバスなどが通っていたとしても出国したら生きていくのは難しい。人権という視点に立てば、ロシア、ベラルーシに対する金融制裁は本来あってはならないことだ。西側を支持する人は、本来あってはならないことをやっているという現実を自覚する必要がある。プーチンのせいだと言い逃れてはいけない。その一点だけを見れば、中国政府の主張はもっともだと思う。なんとしても、短期間で異常な状態を終わらせる必要がある。ロシア人も同じ人間であることを忘れてはいけない。今、他に手段がないのかもしれないが、私も人権の敵の一人なのだ。

ロシアの人口は1.4億人。国土は広いが人口では日本とあまり変わらない。プーチンの支持率は8割を超えていて、情報操作下で国民は、プーチン政権が多少やんちゃでもやってはいけないことをやるわけがないと考えている。悪いのは外国の方だと思っているのだろう。その感覚は日本でも起き得るものだ。

冷静に考えれば、良い国であれば、移動の自由も情報の自由も何ら害を及ぼさないのは明らかだ。もちろん、量的な制約はあるが、ルールを守って出入りすることに問題があるはずもなく、ルールが厳しくても移動の自由があって魅力があれば人は入ってくる。出ていく人が多くて入ってくる人が少ないということは、それは魅力が足りないということだ。芸術の分野ではロシアは魅力的な国の一つだろう。ロシアで学びたいという人はいる。土地もあって、資源も食べ物もある。本当に自由な活動ができるなら、ロシアは魅力的な国になり得るのは間違いない。要するに政治に失敗したということだ。

ロシア国境はフィンランドでも行ったことがある。緊張感があった。

随分前だが板門店に行ったこともある。観光気分だったが、目に見える越えられない国境を始めて感じた場所だ。

稚内からはサハリンが見える。簡単に越えられない見えない線が間に引かれている。

私は、越えられない線、越えられない国境が無くなる未来を待ち望んでいる。愛国者の顔をした扇動者に煽られているだけで、全て同じ人間である。最初は緊張感があるのはしょうがないが、移動の自由が再び妨げられることはないと思えるようになったら、人々の笑顔は増える。

移動の自由が守られる未来を切望する。

今の日本政府は排他性が高い。外国人観光客も金のために受け入れるような扱いだ。国際ベンチマークで見る限り、報道の自由も十分に保証されていない。公平であるべき公権力にも愛国バイアスの傾向が見られる。日本人の多くの人は「政権が(安倍や石原のように)多少やんちゃ(プチ独裁者)でもやってはいけないことをやるわけがない」と思っているだろうが、今や攻撃能力を持とうとしているのだ。私は、そんなことよりロシアとルールを守って自由に行き来できる未来を目指させたい。国境をどこに引くかということより、国境という壁を下げるほうが重要だと思っている。愛国心を煽る人を信用できず、保守は亡国だと思っている。

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