新生活74週目 - 「敵を愛しなさい~人を裁くな」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第7主日 (2022/2/20 ルカ6章27-38節)」。

「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」という教えは強烈である。直感的には、こんな教えを守っていたら負け組間違いなしだ。悪人はやりたい放題ではないかと思う。損害を受けたら、賠償を求めるのは当たり前のことだと思う。ただ、報復の連鎖が不幸を拡大させるのは少し考えればわかるから、歯止めをかけるのは合理的だ。それにしても「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」は行き過ぎに感じられる。

福音朗読 ルカ6・27-38

 27〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

福音のヒント(1)には「イエスは徹底的な愛を要求します。それは無条件の愛、見返りを求めない愛です」とある。イエスは死刑に処されて復活したのに復讐には走らなかった。普通に考えれば、悪霊になって祟りを下す方が理にかなう気がする。旧約の神にはそういう側面がある。民族の神の側面をもち、自分に従わないものを叩き潰したりする。イエスはその神の子を自称し、同時に祟らぬ神でもある。どうも連続性、整合性がない気がする。もう少し考えてみると、旧約聖書も新約聖書も人による神の解釈を文書化したものに過ぎない。モーセ五書と呼ばれるものの中にも矛盾はあるし、新約聖書は最初から人間が書いたものであることが隠されていないし編集会議が開催されて聖典化されている。同じ神に対して複数の解釈が与えられていると言うこともできる。人間イエスが行った神の望みの解釈は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」だ。解釈次第で十戒と矛盾しない。しかし「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」は簡単には機能しない。冒頭に書いたが、こんな教えを守っていたら、強さが正義と考える人はやりたい放題になってしまう。

イエスは祟る神にはならず、パウロに現れて愛を説けと命じた。そして、その人間パウロが復活のイエスとの出会いによって得た神の意志の解釈が現在のキリスト教の神解釈につながっている。その道だけではなく義人ヤコブにも復活のイエスが現れて別の解釈がもたらされることになった。パウロもヤコブも人間だから、解釈の完全な一致などありえない。しかし、根底的なところで、イエスが求めた徹底的な愛を原点にするところでは一致が得られたということだろう。現代でも宗派は複数あって、互いに認め会えない点は多々あるが、それぞれがイエスが求めた徹底的な愛の実現をそれぞれの解釈で追求している。

閉じた世界を作ってその中で純化していく道を選ぶ人もいるが、閉鎖された空間は多くのケースで腐る。開いていないコミュニティは見える世界が狭く事実より自分の都合を優先してしまうようになる。いつのまにか、地位が固定化され、愛を隷従に変えてしまう。

敵を愛することのできる社会を目指すのであれば、敵に殺されたり弾圧されたりしない社会を作っていく必要がある。個々人の宗教心はともかく現在の欧州社会はそういう価値観に沿って進んでいるように見える。死刑廃止もそうだ。日本で死刑になるような犯罪を犯した人であっても、欧州社会は憲法で死刑を許さない。死刑に相当するような罪を犯させないことは重視lするが、人を死刑にしない。個人情報を厳しく守るのは、支配者となる可能性のある主体から弾圧されないような社会を目指しているからだ。だから、行政が個人情報にアクセスできる範囲をできるだけ制限する方向で動いている。人権が守られることによって、ようやく敵を愛する余裕を得ることができる。中には、人権が守られないような状況でも敵を愛することのできる人はいるが、それを万人に求めるのは無理筋だ。それでも、環境を整えれば神の国は近づくと考えてよいだろう。

現実は厳しい。警察力がなければ治安を守ることは難しい。そして強い警察力は自由を奪う。強い権力を許さなくすれば、守りきれないケースも増える。イエスは神は祟らないと言った。逆に言えば、神(のスーパーパワー)に頼らずに自分たちで愛が無駄にならない社会を作り上げなさいと言っていることになる。同時に、神は人の愛を見ていると主張している。「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」は象徴的で、人間社会で他者からどう評価されようと、その人の愛の秤で自分を裁くことになるという教えだろう。気は抜けないのである。

改めて考え直すと「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」は体力が持てば正しい判断と言えるだろう。それは屈服を意味することではない。福音のヒント(5)にあるように「支配に屈することでもなく、憎しみや復讐心を抱くという形で暴力に振り回され続けるのでもなく、どうしたらその支配から解放されるのか。暴力の連鎖をいかに断ち切ることができるのか」は克服すべき課題だ。一人の力でできることは小さくても、行きつ戻りつはあったとしても、福音は育って神の国は近づいていると思う。

人はそれぞれ違う。暴力を振るわれたと感じる感性も人それぞれだ。最初は大括りに国で考えたりする時期があったとしても、最後は全ての個人が被支配者にならない自由人であれる社会を目指すことになる。その個人がキリストを信じているかどうかは関係ない。復活のイエスによってその気付きは私にもたらされた。それは私にとって勇気の源泉となったのである。現実は厳しくても、必ず自分の道が行き止まりで終わることはないと信じることができるようになった。

「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」を素直に聞きたい。まあ、できることは小さいけど。