ニューヨーク・ハーツデールのUnion Japanese Church of Westchesterが2021年12月に活動休止した(ホームページは更新されていないまま)。
2009年、10年の2年間通った集会で当時だいたい10名程度の出席者だった。2011年以降も出張等でNYに行った時に日曜日があれば通うようにしていた。帰りにボタニカルガーデンに行った記憶もある。NYの地で日本語で礼拝に出られるのはとてもありがたいことだと思った。マンハッタンにも日本語でも参加できるやや大きな教会もあるが、私には1時間程度の移動時間が必要でもUJCWの方が魅力的に感じられた。
米国内日本人人口は減少を続け、教会に通う人も減って経済的に維持可能な人数を割ったと考えて良い。単純に経済的に見れば私が礼拝に出ていたころも既に無理な状況にあったと思うが、維持を望む人の意思で何とか運営されていた。そして、私はその存在に力づけられていた。
教会も潰れる。アメリカではかなりの速度で教会は閉鎖されていて、欧州の街でも閉鎖されてしまった教会を目にするのは珍しいことではない。コロナで人が集まれなくなれば財政は悪化するから、日本でも維持できなくなる教会は増えるだろう。
コロナのせいにする向きもあるし、その影響がないとは思わないが、私はもっと大きな変化に直面しているのだと思っている。単純化すれば、インターネットの影響と言って良い。印刷技術による革命と同等のインパクトがあるのを見落としてはいけないと思う。
福音を伝えよと言うのは信者の使命である。福音は英語ではGood Newsと書くこともあり、その良い知らせを広く伝えなさいと言われているわけだ。印刷技術により聖書が低廉化して一般人が自分で所有できる書物になり、聖職者の既得権益は失われ、聖書に含まれる様々な矛盾の存在も明らかになって、それによって心が冷えた人もいただろう。科学技術が進歩して、空の上に天があるというイメージは打ち砕かれ、地球が唯一の存在でないことが理解されるようになり、病も天罰ではなく原因があることもわかるようになった。奇跡に頼ることは合理的ではない。
一方、イエスの教え、あるいはイエスの教えに対する先人の解釈は無意味になったとは思わない。権威や権力による支配を否定し、それを覆して新たな権力を得るのではなく、権威や権力を用いずに持続可能な世の中を作り上げていくという思想は今も魅力的だし、教会という器や牧師や教団の本来存在しないはずの権威や権力とは無関係に福音は福音である。
霊が何かは科学的にはまだ分かっていない。なぜ、福音が心に響くのか、どういう時に信じるようになったり、信仰を失うのかも分からない。今できることは、仮説を提示する程度のことしかできない。牧師の説教は仮説の提示にしか過ぎず、訓練の結果として一般の人より知識が多かったり手法が洗練されているとしても、一つの解釈を提示している以外の何物でもない。あらゆる批判に耐えられる解釈などありはしない。しかし、解釈を聞いて自分で考えるためには間違いが含まれていても役に立つ。
教会にとっても、今は物理的な箱を中心に考えたり、説教者に依存するような時代ではない。紙の時代には、著名な著作が福音伝道に貢献した。塩狩峠を読んで利他の心をキリスト教と結びつけて信じた人もいるだろう。出ている書籍が少ないうちは、情報発信側に立つ機会を得られる人も少なかったし、もっと良い著作をできる人が市井に隠れていると思われていたが、出版のハードルが下がれば昔のように少数の名著が注目されることはなくなる。優れたコンテンツを出したいと思うのが悪いことだとは思わないが、むしろ書籍出版モデルは過去のものになったと考えるほうが良いだろう。Wikipedia的な無名な大量のコントリビューションに基づく知の集積の方に向かうだろう。私は権威や権力に対する依存度の低い時代が来ていることを積極的に評価する。ただ、決して確実なものではなく、様々な脆弱性を含んだ変化だとも考えている。
今は現住倍餐会員の資格を失って再取得の申請を拒絶している私の母教会たる砧教会も現実と向き合えなければやがて破綻するだろう。嵐が過ぎ去るのを待っていれば元の世界が戻ってくると考えるのは適当だとは思わない。懐古的な美しい日本と同様な幻想にしがみついていても未来は開けない。インターネット時代は、すべての人が小者、雑魚である前提で小さくてもできることを重ねていくしか無い。キリスト教徒というコミュニティは誤りが含まれていても公開されたデジタルコンテンツを蓄積していく以外に出口はないだろう。隠し事を持ち続けていられる環境にはない。不義は必ずバレるし、誤りはさけられないのだから、都度それを認めながら訂正しつつ進めるしか無い。権威や権力を守ろうとしても一定の期間で見れば真実に反するものは消えていく。自分、自分たちは特別と考えるのは破滅への入り口である。形あるものはいつかは壊れる。福音を伝えるということは自分が死んだあとのこの世を想像して愛することだと思う。
コワーキングの世界にも、コワーキングはスペースを本来必要としないが、スペースには意味があると考える人がいる。国土が奪われても国家の持続性を担保したいと考えるコミュニティもある。企業という形態も変わりつつある。教会も建物に意味がないとは言わないが建物で考える時代ではない。私は今も復活のイエスが少なくとも私に良い影響を与え続けていると信じている。明るい未来を信じるが、ただ昨日と同じ今日を過ごしているだけではその未来は来ない。活動を休止したコミュニティからも学んで次を目指してのろまであっても無能であっても一歩歩みを進めるしか無い。まず、事実を大事にして歩みを進める。
老いるというのは、破綻が見えていても自分が生きている間に起きないことを願って逃げ回ることだと考えている。人でもコミュニティでもそれは変わらない。私にとって前を向いて進もうという思いは、信仰から出てくるものだ。どうしても動けない時もあるし、あっても良いと思っているが、ずっと同じところに留まっていてはいけないという声があると信じている。
※画像は、2009年のUJCW。春が来て、緑が見えるようになって小さな幸せを感じたのを思い出す。