2006年1月7日(土)は蘇州の拙政園辺りを散歩していた

15年前の今日は蘇州にいた。池が凍っていたのを思い出す。2004年からしばらく毎月のように通っていて、この頃は、空港からも電車やバスを使って動くようになっていたし、街も一人で歩くようになっていた。当時はまだ、上海蘇州間の列車に乗ると異質なものとしてちらちらと見られていた。行く度に開発が進んで、街が変わっていったのを思い出す。2019年のWebコンテンツに「女子旅に最高!今、蘇州がオススメな6つの理由」という記事があったくらいだから、今は、きっと大きく変わっているだろう。

その頃は、まだコワーキングスペースという概念もなかったし、スマホもなかった(初代iPhoneの発表が2007年、日本での発売が2008年、T-Mobile G1が2008年)から、今のようなリモートワークは不可能だった。約10年前にLTEが機能し始めて、初めて今の働き方の原型が見えてきた気がする。ネットワークの費用が安価になって、ローミングも現実的になったことで、国の境界を意識することも減ってきた。かつては、成田で海外用のガラケーをレンタルしていたのが、今ならSIMも入れ替えることなくネットが使えるようになっている。電話のほうがずっと高くつく。

後10年経過すれば、私達を取り巻く環境はまた大きく変わっているだろう。化石燃料を利用する車の排ガスの匂いに触れることは稀になっているだろうし、物理的な移動の意味付けも変わる。人と会うことの意味も変わっているだろう。しかし、恐らく感染症との戦いは繰り返しているだろうし、まだ国の形は大きくは変わらないと思う。それでも、10年もすると流石にデジタル・ガバメントも進み、世界共通のデジタルIDが議論されている状況程度にはなっていると期待している。

移動の自由、移住・就業の自由は様々な軋轢を生みながらも為政者が「専制と隷従、圧迫と偏狭」を進めるのを困難にする。数世代経過すれば、(廃藩置県のように)古い境界は多くの人にとって意味を持たなくなる。

1990年以降、頻繁に海外に出るようになって、自分の足で異国の地を歩く(あるいは自分で車を運転する)ことを楽しむようになった。中国や韓国は前の戦争の記憶が濃厚に残っている地で、時に居心地が悪い。人種的にも近いし距離も近いからこそ感じる難しさもある。でも、人間そのものには大した違いはなく、個人差の方が大きいし、制度による生活規範に束縛される影響もある。日本人と中国人という比較より、日本という国の制度と中国という国の制度を比較するほうがずっと現実的に感じる。移動の自由、移住・就業の自由が高まれば、重要な制度は共通になっていく。

私は、国内を移動するように気軽に蘇州や上海で楽しみながら仕事ができる未来が来ることを願っている。中国の優れた点には学び、共に歩めるようにルールの共通化を探っていくのが望ましい。日本の戦後20年の頃を思い起こせば、一世代を経過すると社会が大きく変わり得ることは確かなのだ。当時の蘇州はまだ東京に比べると不便さを感じることが多かったけれど、多分、今行けばきっと全く異なる体験が得られるだろう。日中に共通な克服すべき課題は排他的愛国心だと思っている。他国のことはともかく日本が内向きになるのは望まない。出入りが自由な地であって欲しいと願っている。