今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第23主日 (2021/9/5 マルコ7章31-37節)」。最初に福音朗読を引用させていただく。
福音朗読 マルコ7・31-37
31〔そのとき、〕イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
福音のヒント(1)に『「ティルス」はガリラヤ地方より北の地中海に面した町で、「シドン」はそれよりもさらに北にあります。「デカポリス地方」はガリラヤの南東に位置していますから、マルコの描くイエスの行程には少し無理があります。』とある。ティルスは現在のレバノンのスール、今はさびれた世界遺産の場所で当時は大きな都市の一つだったらしい。シドンは現在のレバノンのサイダー。ガリラヤ湖畔のカペナウムからは100km程度離れた場所でかなり遠い。ただ、Googleマップで徒歩ルートを探るとスール・カペナウムもサイダー・カペナウムもHasbaiyya辺りを通る。直線距離はティルスのほうが近いが地形を考えるとシドン経由が合理的だった可能性はある。地中海で船を使った可能性もある。その場合は、一旦船でハイファまで南下してナザレの辺りを通って動いた可能性もあるだろう。そう考えると、「デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へ」というルートも想像できる。シドンは大きな港町だったようなのでハイファと定期便があったかも知れない。
改めて地図を見ながら考えてみると、イエスの行動範囲はかなり広い。活動資金はどうしていたのだろう。奇跡に伴う寄付行為はあったのだろうか。ちょっと興行ツアー感もなくはない。不謹慎とは思うが、イエスも弟子も人間だから食べなければ生きていけない。
ちなみに今日の聖書箇所はガリラヤの話で、そこではすでにイエスには知名度があり、福音のヒント(2)にあるように『人々が病人をイエスのもとに連れてきていやしを願います』という状況にある。言ってみれば、現世利益を求めて人が集まってきていたと考えるのが自然だろう。福音のヒント(3)には『「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」は民間に伝わるいやしの物語によく見られる動作だったそうです』とあり、イエスが「エッファタ」という言葉とともに行ったら、機能したという記事ということになる。現代の常識で考えれば、こんなことが効くとは思えないし、当時だってありえない話だっただろう。しかし、イエスの周りでは起きていた。何かが起きて神経回路がつながったのだろうか。何かのきっかけで体の状態が大きく変わることはある。本人が潜在的に持っていた能力が引き出されたと取れなくはない。
まあ、今となっては事実を検証することはかなわないので、きっとそういう事実があったのだろうと考えるしか無い。少なくとも、子供の頃は素直にイエス様スゲーと思っていた。今は、奇跡物語をそのまま受け取ることはできないが、人との出会いがその人の人生を激変させるケースはたくさん見てきているので、人生が変わるほどのできごとが書かれていても、科学的に見てありえなく見えることが書かれていてもそれほど驚かない。その話を読んで、どう学ぶかが自分にとっての問題となる。
福音のヒント(3)では、『マルコは群集の口をとおして、神の創造と救いのわざが、神の子であるイエスの上に実現しているということを伝えようとしているのでしょう』と解釈している。まあそうかなと思うが、私はこういう奇跡物語を読むといつもその後どうなったのだろうと考えてしまう。救われた人も「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と考えるだろう。しかし、私はその感覚は永遠に続くものではないと思う。彼は、耳が聞こえるようになって話ができるようになって新しい人生が始まった。そして、感謝の念は薄れなくても、それはやがて新しい日常になる。その新しい日常を生きることになって、また新しい苦労に立ち向かい事になる。その時、彼は自分に起きた奇跡をどう思い返すのだろうか。その時期が来た時に、彼が聞き話せるようになったのはイエスの業だという風評がつきまとっているかも知れない。彼はうまく新しい人生を生きられただろうか。
別の観点もある。
この聖書箇所の人は、普通の意味で「耳が聞こえず舌の回らない人」だっただろう。そしてイエスと出会って耳が聞こえるようになり、発話できるようになった。自分は耳が聞こえて発話はできるのでそういう意味でこの話は私にとっては他人事だ。しかし、種まきのたとえの「聞く耳のある者は聞きなさい」を想起する。自分は本当に聞こえているのだろうか、見えているのだろうかという迷いは常にある。現実社会では、同じ場所で同じものを見ていてもその人の中に入っていくものはかなり異なることが頻繁にある。同じニュースに接しても解釈は割れる。客観的な事実は理解を一致させる意思さえあれば相当なレベルで合意に達することは可能だが、一致に至らない事例など山のようにある。
つまり、自分は見えている、聞こえている自信があったとしても、本当に見えているか、聞こえているかは怪しいのだ。特に意見が割れて少数派になるとさらに難しい。自分が見えていないだけかも知れないが、自分が見えている景色のほうが事実を的確に捉えている可能性もある。著名な事例で言えば「それでも地球は回っている」だ。「耳が聞こえず舌の回らない人」はマイノリティで大多数の人と同じように聞くことはできない。それは辛いことだが、耳が聞こえれば正しい認識ができるわけではない。
もう遠い昔の話だが、私は見えていない人、聞こえていない人だった状態から「エッファタ」という声が届いて、洗礼を受ける気になったのかも知れない。逆に、今も聞こえていないのかも知れない。
イエスは「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた」とある。なぜ天を仰いで深く息をついたのだろうか。なにを嘆いたのだろうか。その人のことを哀れに思ったのだろうか。ひょっとしたら、イエスはその人を連れてきた人々の無自覚な差別意識を嘆いていたかも知れないと思う。彼のその後の人生が本質的な意味で豊かであったことを願いたい。
私は、どうもパラリンピックが好きになれない。障碍があっても強くなれるというメッセージには、強いことが良いことだという価値観が含まれている。どうしても、障碍の不利が強調されてしまう。目に見えやすい障碍に限らず、すべての人に自分の思いのままにならなくて悔しく思うようなことはある。肌の色や性別、病気や身体機能の差があっても同じ人間でスーパーマンを目指さなければいけないわけではない。ある軸を設定して優劣を競うのは構わないが、頑張れというメッセージが強くなると暴力的だ。もちろん耳の聞こえない人が聞こえるようになって喜ぶのは素晴らしいことだし、その向こうに彼の望むことができるようになった未来が来るのは素晴らしいことだ。しかし、耳の聞こえない人がそのままでも一人の人間として尊厳が守られて生きていける社会を実現する方がもっと素晴らしいことだと思っている。
奇跡のイエスはスーパードクターだ。一方、福音宣教は本来良薬のようなものだと思う。医者の力に頼ることなくシステマティックに体質が改善できればそれに越したことはない。同時に、病んでいるときには医者の存在が生死を分ける。愛に満ちた行いが常態化して、教会が痩せていくのは、本来好ましいことだ。ただ、どうも今世界は恐怖と強欲で病んでいるように見える。冷戦終了時に一時的に教会が隆盛になったように、病んでいる時は医者に活躍して貰う必要がある。現実的には、人権意識を高められるように指導して、有権者として社会が病から脱することができるようにそれぞれが行動するように導くのが仕事になるだろう。一人ひとりの力は小さくても、ベースラインの底上げに貢献することはできる。危ないのは、誰についていくべきかといった人に依存する気持ちが高まることだ。人は誰でも間違いを犯す。教会も国も排除的でない方法で誤りが継続的に是正され、良い方向に向かって進んでいく共同体であって欲しい。今は勝利者(独裁者)を求める罠に落ちないように注意する時期だと思う。専制と隷従に持続性はない。