自己資金で起業すると、その会社で稼いだ金は自分のものだと感じる。雇用していれば、従業員の稼いだ金でもあり、適正な配分をしなければ組織は壊れるから、少なくとも儲かっている間は従業員の収入はある程度保証されることになる。
正規雇用にこだわるのは、法的に雇用≒収入の保証レベルが高い点にある。逆に言えば、企業は業績変動に耐えられるだけの貯金あるいは信用力が必要になるので、個々の従業員への配分額は小さくなる。大手企業はそれでも高給を出せているのだから本当にすごい。ただ、従業員はそれを自分の実力と混同してはいけない。ちなみに、同じ仕事をやっていたら、非正規雇用の方が高額な処遇にならないとおかしい。解雇規制がなければ、雇用保証のための貯金は必要ないからだ。
メンバーシップ型雇用の場合、従業員は会社は自分のものでもあると考えるようになる。稼ぐには固定費も変動費もかかるが、会社という財布は通常の従業員の個人の財布より大きいし、社員はそのポストに基づいて、会社の財布から金が使えるという権利が得られる。昇給という形で自分への配分も増やせる。メンバーシップ型とジョブ型を直接対比させるのは必ずしも適切とは思わないが、ジョブ型は単純化すればその従業員の現在価値(短期価値)に報酬を連動させることになる。
複業は価値観の転換を必要とする。少なくとも知識として所属組織と自分の関係にどのような可能性があるのかを知る必要があると思う。
日経産業新聞に『タニタ発「個人事業主」 見えてきた成果と課題』という記事が出ていた。一割の方がみな同じというわけではないだろうが、久保彬子さんの事例は、個人事業主という契約形態を取ったというよりは、分社化の新形態という感じがする。財布はタニタが持って、新規事業を推進していると考えてよいだろう。雇用契約の束縛を外して事業が推進できるという意味で自由度が高く合理性が感じられる。分社化を組み合わせて、ストックオプションか優先株を割り当てる方法もあるかも知れない。出戻りを認めれば、業務内容次第で雇用契約を見直す自由度も得られるし、もともとメンバーであった場合の延長線上で働くことができる可能性もある。
自己資本ではなく、資本調達して起業する起業家は、その起業自身がジョブ型個人事業主契約のようなものだ。
距離をおいてみると、従業員ベースで見た企画:現場比率が1:100とかだったのが1:10、1:5に変わる方向で社会は動いている。今に始まったことではなく、産業革命だって腕っぷしはエンジンに置き換えられてきたし、情報革命も大量の事務員がコンピュータによって置き換えられている。エンジンやプログラムは未来永劫に使えるものではないが、一度完成すれば当分の間は資産が金を生む。マクロで見れば、現場の100が減る方向に動かしていくしか無い。ハードウェアとソフトウェアの研究開発の違いはリリースサイクルの長さで、環境変化速度が違う。新興国あるいは新興事業者があっという間にビジネス地図を書き換えてしまうようなことが起きる。
現場ジョブで生産性を他の2倍にするのは容易ではない。例として上げるのはややはばかられるが、名医も1人で見られる患者の数は限られるのに対して、創薬は億単位の患者を救える可能性がある。感染症研究者(医者でなくても良い)が公衆衛生システムを起案して制度化すれば、薬よりさらにパフォーマンスが出せるかも知れない。従業員視点で見ると、現場業務は繰り返しながら習熟とともに生産性が向上していく安定的な業務なのだが常に置き換えの驚異にさらされている。本当は安住の地など無い。
合理的に考えれば、企画あるいは研究開発業務が企業や国家の将来を左右するのは明白だ。
一方、起業(研究開発)は終われば解散するプロジェクト型の業務である。本来継続性のある業務ではない。新規事業もビジネスプロセスが確立してしまえば、然るべき時が満ちるまでは研究開発はいらないのだ。従業員視点で見れば、プロジェクト型業務は安定は期待できない仕事である。ここにも安住の地など無い。
単純化して考えると、プロジェクト型の仕事は(仮に研究期間が非常に長かったとしても)ゴールに向かって走る短距離走でWinner takes all (for a while)という性格をもつ。チームで支えるレースのような姿を思い描けば良く、競技会がなくなれば支えるチームもレーサー、アスリートも仕事はなくなる。そういうものだ。やがて競技会が復活する日を願って資金を供給すれば食いつなげるかも知れないが、場がなければ基本的には生きてはいけない。
複業時代は、複数のメンバーシップ型の組織に関わっていくような時代になるだろう。メンバーシップ型組織は定常的に事業改革を続けなければ行けない時代である。すべての従業員が何らかの形でプロジェクト型の変革にも参加せざるを得ない。定常業務のフルタイムが週32時間(8時間×4日)にできればプロジェクトに週8時間程度は関われるようになる。そういう制度設計ができなければ体力が残らないから、よほど特別な思い入れがある人でなければ、研究開発(業務改革)プロジェクトから離脱することになる。
私自身は、前職で研究職であった時期もあるし、アーキテクトとして活動したこともある。フルタイムの研究職は快適だったが、現実との距離が遠いのがストレスになっていた。アーキテクトとして活動すると、本当に必要とされる時期はわずかだ。5年かかるような大きなプロジェクトでも本当に必要なのは数ヶ月程度。本来通期でフルタイム参画を必要としないが、その価値は大きくプロジェクトの成否やコストを左右する。私の場合は研究活動の蓄積がなければ務まらなかったので、仕入れ8割、実働2割程度と低い生産性だったと思う。プロジェクトマネージャーとして活動した時期もあるし、部門長として活動した時期もある。そういう時期だと、フルタイムメンバーに頼っていた。頼みたい時に頼める部下がいるのといないのでは楽さがぜんぜん違う。働き手の視点と、管理者側の視点は違うのだ。現場管理者の視点だと、もうちょっと残業を頑張ってくれれば納期に間に合えるのにと考えるのが自然だ。ゴールが見えていれば、メンバーシップ型チームは頑張れる。ただし、持続性は無い。人事から見れば残業時間が増えればうつ病の発症者は増えるのはデータを見れば明らかなので限界値を探る。何時間までの残業なら何とかなるという判断になるが、それは現場人事の短視野と見ることもできる。
経営者視点だとまた違ってくる。効率的に業務が回って日々の利益を上げていけるか否かは死活問題だから、現場を大事にしないといけないものの、環境は日々変化するから、研究部門はともかく研究機能、開発機能を軽んじれば将来はない。トップ層、トップそのものの判断が問われるところとなる。マクロで見れば、現場がギリギリで回る勤務時間総量が分かっているのであれば、それに1割、2割のゆとりを出していかなければいけない。そしてその配分も考えなければいけない。手法としては事業売却を含めたM&Aも無視することはできない。
経営者視点で自分の過去を見直すと、育成は非効率だったと思う。フルタイムの研究職でなかったとしても、ほぼ同等の学びは可能だったと思う。今は育児や介護を原因として時短勤務が許容されるようになっているが、多分、現場業務は程度の問題は別として全員が時短勤務で良いのだと思っている。ただ、それぞれの研究開発あるいは業務高度化を促進できるシステムがなければただの遊びになってしまう。現場管理者とは別の研究開発指導者が割り当てられれば機能するだろう。時間配分はその人の性質によって動的に割り当てを考えれば機能すると思う。私の場合は、企業研究者時代に大学に足繁く通ったが、指導責任を負ってもらったことはない。ある程度責任を負ってもらうだけでも自律性に頼るだけよりは効果があっただろう。
技術進歩がリモートワークの適用範囲を拡大するようになると短期でも中長期でも経営判断に影響を与えることになる。
複業時代には、今やっているような仕事を少しずつ複数の雇用者から受けてこなしていくというイメージを抱きがちだが、多分そういう未来は来ない。溢れ分を担当するというケースはあるだろうが、そのワークスタイルはバラ色ではないだろう。むしろ、レベルはともかく指導者、育成者として対価をもらう複業がワークスタイルとしては機能するのではないだろうか。
現場業務は安定性が不可欠だから、アウトソーサーを使うとしてもメンバーシップ型雇用の従業員が担当しないと機能しない。経営者はその従業員の能力向上を支援する必要がある。従来は徒弟制が主流だったが、部下を育てれば自分のポジションが脅かされるモデルはポストが有り余っている成長期以外は機能しない。社業の本質に関わる部分は経営者が指導するとして、技術的な部分は複業者に頼るほうが良いだろう。指導者は複数でも良いし、交代させても良い。複業時代はそういった競争は当たり前のものになると思う。大学教授や大学院生だって十分可能性があるだろう。かつて新規事業を成功させた経験があるが、今は担当している案件がないような人も候補になる。辞められるよりは残って欲しいと経営者が思うのであれば、役職手当などを無くすなど給与カットの替わりに複業を無制限に許容するなどの施策もあり得るだろう。実力を発揮できるタレントは斜陽の大企業に抱え込まれて無為の時間を過ごしている可能性がある。
制度的には、現場業務の時短へのインセンティブを与え、複業活用による人材育成にインセンティブを与え、同時に現場の移転(転職)を容易化すれば、全体生産性は向上するのではないかと考える。雇用を守るという政策がミスマッチの人でも養えという形になるのはどう考えても合理的ではないし、環境変化が激しい時代には生涯教育が機能するシステムが必要になる。複業は上手に制度設計すれば、バラ色の未来をもたらす可能性を秘めていると思う。そして、その生涯教育は企業が負担するような有償のものばかりではないだろう。オープンソースコミュニティへの参加は、もう一つの可能性を提示している。コモンズへの参加率は成熟度の代替指標の一つとなると思う。例えば、教育教材がオープンソース化されれば、育成生産性は確実に向上する。遠くないうちに、時代は動きはじめるだろう。