新生活46週目 - 続「イエスは命のパン」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第19主日 (2021/8/8 ヨハネ6章41-51節)」、先週に引き続き「イエスは命のパン」。

この箇所は並行箇所のないヨハネ伝固有のもので、Wikipedia(英文)によるとヨハネ伝では最後の晩餐の記述がないので、聖餐あるいは聖体に関する教えとしてこの箇所を取り上げるという解釈もあるようだ。福音のヒント(1)に「紀元80年にユダヤ教はキリスト信者を会堂から追放するという決定をしました」とあるから、キリスト教会はユダヤ教と袂を分かつ必要が生じていて、イエスを信じるか否かを問わなければいけなくなっていたのだろう。

福音書を呼んでいる限り、キリスト教とユダヤ教の神は同一である。洗礼者ヨハネやイエスは、ユダヤ教で既に出来上がっていたシステムが軌道を外れていると主張して既存の権力から目をつけられて弾圧された。言ってみればより望ましい体制を指向した活動だった。権威者を激しく糾弾していたが、その排除そのものを目指したものではなく、ユダヤ教が信じていた神の御心を謙虚に再解釈せよと求めていたのだろう。

権力者側から見ると自分たちの地位、正統性の危機に直面する。それに耐えられなければ、排除の選択をするだろう。あるいは、新興勢力が既存の権力者を排斥し決裂することになる。ちょっとマルチン・ルターの宗教改革を想起させるものがある。彼はカトリックを潰したかったとは思えない。カトリックの体制が脱線し腐敗しているからそれを正そうとした。腐敗は実際にあったから、プロテスタントが勃興し大雑把に言えば2つの宗派は相互に排斥しあい決裂した。人間の集団である以上、人数と経済力あるいは武力(警察力)が関係し、一度決裂してしまうと中々修復は難しい。

少なくともユダヤ教とキリスト教は2000年を経ても再融合に至っていない。カトリックもプロテスタントの正統性を否定し続けている。

ここで福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ6・41-51

 41〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

聖餐式は一種の踏み絵で、そこに参加するために洗礼を受ける、信仰告白をするというハードルがあり、その実施権威が(正統性のある)神父や牧師に与えられている。信仰を告白して群れに参加し、群れに受け入れられているという状況を確認できるのは救いとなるが、同時に差別のもとになる。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」はキリスト教会の踏み絵であり、食べなければ通常通り死ぬという宣言となる。

中学の時に影響を受けたJesus Christ Superstarの最後の晩餐のシーンは強く印象に残っている。正しく聞き取れているか自信はないが、以下のようなフレーズだった。

For all you care this wine could be my blood. For all you care this bread could be my body. The end. This is my blood you drink. This is my body you eat. If you would remember me when you eat and drink.

心して聞きなさい。このワインは私の血かも知れない。このパンは私の体かも知れない。これが最後だ。あなたが飲むこの私の血、この私の体。あなた方が飲み食いするときには私のことを思い出してくれたら良いのに。

もちろん、これは解釈された歌詞だし、マルコ伝でもcould beなどとは書かれていないが、私にはしっくり来る。体制側との決裂とそれに伴う困難に立ち向かう決意が整った人間イエスは、最後の晩餐のときに血と肉を分け与えるから覚えておいてくれと言ったと考えると、それはありそうだと思う。果たして、その時に自分の側にいない人は救われないと主張しただろうか?私にはそうは思えないのである。逆境に置かれてみると、聖餐式は矛盾をはらんでいると思う。イエスを思い起こすためのきっかけになるのなら、信者であろうがなかろうが構わないだろう。そう考えると、聖餐式は教会組織を維持するための規制に過ぎないことになる。

福音のヒント(4)で「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」についてコメントされている。「イエスを信じる人と信じない人を神が前もって決めていると考えるべきではありません」という考え方に共感する。私はなぜ自分がイエスを信じて信仰告白したかには思い返しても合理的な理由を見つけられない。そして、今なぜ母教会の砧教会の金井美彦氏や役員から事実を指摘することで排除され続けているかも理解できない。極めて理不尽だと思う。信仰に基づいて正しいと思うことをしても権力を傷つければ権力は容易に邪悪化してしまうのかも知れない。堕ちた牧師や信徒を哀れに思う。誰しも一瞬先は闇なのだろう。未来のことはわからないし、過去の行為の解釈も変わる。自分も多く排除行為を行ってきた過去があり、それは事実として自覚の上前を向いて歩いていくしかない。力で押すのも道だし、別の道もあるだろう。良い道を探りたい。

人間の集団に感情的な衝突はつきものである。それが暴走することでイエスを磔刑にした2000年前の現実は今も程度の差はあれ変化したとは言えない。イエスは復活しても裁き返すことはなかったが、まだ愛の国は完成してはいない。私は自分を含めて道の途中にいるのだと考えることにしている。

蛇足になるが、しばらく前まで日本基督教団の日毎の聖書箇所でエゼキエル書、ダニエル書が連投されていた。バビロン捕囚期の彼の地での書物で、イザヤ、エレミヤのようなイスラエルの地からの視点とは異なる。実際にはありえないだろうと思う記述も多いけれど、故郷を失った時に何を心の支えにするのかという読み方をすると示唆に富む。力に力で対抗し得ない時はいくらでもある。一つだけ明らかなのは、誰であれ破壊することなく心の中を支配することはできないという普遍的な事実だ。人が一人ひとり違う以上、完全な一致などありえない。心が支配できないのであれば、行動に共通規範を設定するしかないのだろう。公衆衛生も然り。

※画像はWikimediaから引用したカトリックで用いられている聖餐式のパン・ホスチア。