新生活45週目 - 「イエスは命のパン」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第18主日 (2021/8/1 ヨハネ6章24-35節)」。

福音のヒントでは、その前の「湖の上を歩く」にも言及している。この箇所も印象に残る箇所だ。ヨハネ伝にはないが、マルコ伝では「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。」という記述がある。この時、弟子たちは群衆の集団ヒステリーの影響を受けて自分たちはイエスに最も近い存在と優越感を抱いていたかも知れない。イエスは、弟子たちの冷静さを呼び戻すために強いて船に乗せた可能性がある。そして、イエス自身は祈るために山に行ったとある。取りようによっては、イエスも群衆の熱気にあてられて自分を取り戻す必要があったと読むこともできるだろう。ヨハネ伝では、そういう人間的なイエスは書かない。ヨハネ伝のイエスは神々しいのである。ちなみにマルコ伝では「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。」と書かれている。ベトサイダとゲネサレトはカファルナウムを挟んで17kmほど離れている。湖が荒れて、目的地とは異なるところに流れ着いたのだろうか。

ここで、福音朗読を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ6・24-35

  〔五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった〕24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

群衆に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」と言って通じるわけがない。マルコ伝には同様の記述はない。私に真偽を断定する知識も知恵も無いが、この箇所は怪しい。

ヨハネ伝では続けて、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と言ったと書いてある。教会という視点から見ると非常に具合の良い言及だが、私には我田引水感が濃厚だ。自分を信じよとイエスが言ったよりは「神を信じよ」と言ったと考える方がしっくり来る。一方で、人間は神ではないから「神の業」を行いたいと思っても何が神の業かを判断することはできない。だから「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」は善くあろうと思う人にとっては結構本質的な問いとなる。分からないなら、「神がお遣わしになった者を信じ」従うのが適切ということになる。ただ、誰が「神がお遣わしになった者」かは分からない。結局の所ロジカルには、答えは得られない。そうなると「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」を信じるしか無いのだろう。

ちなみに、マルコ伝では「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」と続いている。ヨハネ伝では群衆はカファルナウムに来たとある。今の感覚で言えばアイドルの追っかけという感じだろうか。仮に群衆の数が100人程度であったとしても想像するとちょっと怖い。群衆はイエスのスーパーパワーを信じていたので、病人を探して直してもらえるからといって連れ出したのだろう。ダメ元で従った人、家族も奇跡に接して信者に変わっていったと思われるシーンだ。当時の権力者はかなりドキドキしながら見ていたに違いない。イエスが本物ならやがて政権は転覆する。

きっと、無条件についていくのでなく何が起きているのか、イエスが何者なのかに関心をもった人はいただろう。追っかけが跋扈している環境で「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問いかけるチャンスが本当にあったのか怪しいが、イエスのスーパーパワーは神から出たものと考えると、自分も認証を受け神の業を行いたいと考えるのは自然だ。善意か否かは関係なくHowToが分かれば自分もスーパースターになれる。人間イエスは、神の一方的な選びでスーパーパワーが発揮できていることを自覚していたのではないかと想像する。一方的な選びであれば神の力を行使する方法論は存在しない。教団の視点では、権威の継承が信じられるのが都合が良いので「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」が都合が良い。しかし、実際にできることはよりよい人生を生き、より良い社会を作り上げていく努力だけだ。薬を作ることができれば病を癒す確率は上げられるし、社会保障制度を整備できればその時期に競争上不利にある人が幸福感を得られる確率を上げられる。技術を磨けば医師は目の前の重傷者を救えてヒーローになるかも知れないし、無名の地味な活動が社会を支える側面もある。

福音のヒント(5)で「イエスは、人と人とが生かし合う命を日々生きていました」とある。それにならうのは望ましい生き方だと思う。その生き方をできるだけ正確に伝え適切な解釈を与えていく役割を担う指導者も必要だろうし、違う人生もある。神の義を求めることは、誰かに依存することとは違う。だから私にはイエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」と言ったと書かれているこの箇所は事実に反するのではないかと考えている。様々な価値観がある中で、自分の信じるところは軽んじることなく、人と人とが生かし合う命を生きたいと願う。

※画像はWikimediaの"Kibbutz Ginosaur, from Hebrew Wikipedia. "から引用させていただいたゲネサレトと思われる場所の写真