新生活44週目 - 「五千人に食べ物を与える」

hagi2021/07/25(日) - 09:15 に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第17主日 (2021/7/25 ヨハネ6章1-15節)」。

カトリック教会では、A年からC年でマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝を繰り返し学ぶ。ヨハネ伝は出てこない。今日の福音のヒントで、「きょうの福音では同じ話をヨハネ福音書から読みます。そして、きょうから5週間、ヨハネ福音書の6章が読まれていくことになります。このようにカトリック教会の朗読配分では、主日のミサの中で4つの福音書をバランスよく読むことができるようになっているのです」と書かれているのは印象に残った。

今日は早速福音朗読と第一朗読を引用させていただく。

福音朗読 ヨハネ6・1-15

 1〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

第一朗読 列王記下4・42-44

 42〔ギルガルの地が飢饉に見舞われていたとき、〕 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、43召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」44召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

「五千人に食べ物を与える」という話を読むと、自由学園の朝の礼拝だったと思うが、ある先生が群衆の中に食べ物を持っていた人が一定数いてそれを供出したから足りたのではないかという解釈を一つの仮説として提示していたのを思い出す。ありそうなことだと思った。奇跡は奇跡としてあるだろうとは思っていたが、五千人をいくつかのパンと魚で満足させるのは無理がある。

福音のヒントでも何があったかについては解説していない。文面のとおり、食べて満腹したという立場に立っているように見える。その奇跡に対して福音のヒント(5)で『この出来事に対する人々の反応は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」というもので、決して否定的な反応ではありませんでした』と書かれている。違和感はない。もし、実際にそんな奇跡があったら「この人は本物だ」という反応か、「絶対なにか裏がある」という反応かのいずれか、あるいはいずれもが生じただろうと思う。4福音書にすべて記述があることを考えると、何らかの事実はあったのだろう。ただ、拡声器もない時代に一万人に向けた説教ができるわけがない。

検索してみたら、この時期のガリラヤの現実はどうだったのかを書いた文書アンティパス、ガリラヤの状況、富と貧困が見つかった(どのくらい正しいかはわからない)。ガリラヤの総人口が18万人だとすると男5千人、男女計1万人は総人口の20分の1以上になる。もし人口の5%が集まったとすると集団ヒステリー状態になるだろう。政治的な野心をもつ人もいるだろうから「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしている」は現実だったのかも知れない。あるいは財力のある野心家が食料を供給したという可能性だってある。実際には何があったのだろうか。事実がどうだったのか知りたいと思う。「大群衆を満腹にさせた男」のようにこの聖書箇所は別の「イエスという命のパンをいただく聖餐によって豊かに養われたという事を伝えようとしている」を伝えるためのものと考える人もいる。この記事では、「ガリラヤ湖周辺には、5000人規模の集落は存在しなかったという調査結果」に言及しているので、恐らくそのままの事実はなかったのだろう。ただ、男女計で500人程度の貧困層を含む群衆が形成されたというのはありそうな話だ。

貧富の差が激しい状態で開放の思想を説く指導者が現れ、腹を満たすことができると信じてしまえば革命の火が灯る。相当危険な状態と考えたほうが良い。イエスであっても制御するのは困難だったのではないだろうか。マルコ伝では「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とある。実は、かなり切迫した状態だったのかも知れない。

福音のヒントは「イエスの力を見た人々はイエスにこのような期待をかけ、イエスを自分たちの王に祭り上げようとしたのです。わたしたちはイエスに何を期待しているのでしょうか。そして、イエスはわたしたちに何を求めているのでしょうか。」と書いている。私はイエスは自律的に愛があふれる社会に向けた改善活動をしなさいと勧めているのだと解釈している。

今日の第一朗読でエリアの弟子エリシャの奇跡が記録されている。この箇所の前に毒ウリ鍋を無毒化した記事があり、飢えている人たちを食べさせるとそれらの人は従うようになるのが分かる。まず食えないと話が始まらない。新約と旧約を対比させると、旧約は不義との戦いに奇跡を使うという印象が強く、新約は不義は不義だが、奇跡は愛の業という印象が強い。今日の2つの箇所はよく似ているがその意味するところは全く異なるように思う。旧約では民は駒の一つになり、新約では民は唯一人の主役になる。群衆を群衆のままにしておいてはいけない。群衆は解散して一人の主体的な個人にならなければ愛は機能しない。その上で、群衆ではなく主体的な個人が愛に基づいて力を合わせる集団の形成は望ましいのだろう。

K字回復と言われる新たな格差の時代、あるいは環境破壊のつけが回ってきた現代に何を目指すのか改めてイエスに問われているような感じがする。EUは愛が機能するような方向で制度化をしようと努力しているように見える。すべてが上手く言っているとはとても言えないが概ね良い方向に動いていると思う。とてもキリスト教的な感じがして好感する。多様性の尊重は、群衆を形成させずに協力し合う道を探ることと他ならないと思う。様々な考え方(評価基準)があるのは自然なことで対立が起きるのも避けることはできない。事実に向かい合った上で排除することなく共に歩む未来を模索していくしか無いのだろう。

蛇足になるが、私は年頭の米議会襲撃事件が忘れられない。群衆を形成しなければ、あのような大規模な破壊行為は発生しない。イエスが2000年前に「『我々の父はアブラハムだ』などと思っても見るな」と言ったように、ナショナリズムを超える方法を見つける必要がある。群衆を形成してしまうと敵あるいは「あんな人たち」という隔ての中垣が生じてしまうのである。私は、2000年前よりは大分良くなっていると思う。果てしない改善の旅は続く。イエスの教えの本質はそこにあると思っている。

※画像はWikimediaのRuins_of_Bethsaida_village_in_summer_2011、給食があった場所とは違うが、比較的平坦な草地はそこここにあったと思われる