新生活34週目 - 「天に上げられる」

hagi に投稿

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「主の昇天 (2021/5/16 マルコ16章15-20節」。並行箇所はルカ伝24章とその続編にあたる使徒言行録の1章に書かれている。マタイ伝には昇天の記事はない。直感的には、天は上の方にありそうで、空の彼方にあるような気持ちになるが、現代人は空の向こうには空気も存在しない宇宙空間が広がっているのを知っている。空を昇っていってもそこに天などありはしない。

今日の福音朗読の箇所は9節が[でくくり始め、最終節の20節が]でくくり終えていることから分かるように、マルコ伝完成後の加筆部分とされている。つまり、マルコ伝には白い長い衣を着た若者による復活の告知で終わっていて、マグダラのマリアや弟子たちに復活したイエスが会った記事も昇天の記事もないのである。wikipediaのキリストの昇天の記事はよくまとめられていると思う。ともあれ、福音朗読の部分を引用させていただく。

福音朗読 マルコ16・15-20

 15〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、〕それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 19主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。20一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

イエスは復活から40日目に昇天したとされているのだが、なぜずっとこの世に残らなかったのか、その日数にどのような意味があるのかは謎である。

人が死ぬということはどういうことかは簡単には決まらない。日本では呼吸停止、心拍停止、瞳孔散大・対光反射消失の3つの全てが起きた時を医学的な死と考えてきた。臓器移植法以降は法的には脳死を死と考えることになっている。イエスの復活後40日間は物理的な身体を有していたとされているので、生きた人間だったようにも見えるし、扉が閉じられている部屋にいきなり現れたりするのでもはや生きた人間にはありえない特徴を有していたのかも知れない。超越的存在を待望し、従いたいという依存心を刺激する。ちょっと怖い気がするが、その時期のイエスをこの目で見たいと思う。実際どうだったのだろうか。

神父であろうと教皇であろうと求めても現実に体験することはかなわないだろう。しかし、求めたわけではないがパウロは体験したと告白している。行動記録を踏まえて考えるとかなり尤もらしい。昇天してもイエスは勝手に人を選んで働きかけてしまうのである。11人の弟子たち全員に会ったかどうかもわからないし、他にも現れているように見える。それは、脳に対する働きかけなのか、リアルなものかはわからない。岡嶋二人のクラインの壷という小説があるが、自分が生きているか、自分がリアルと感じているものが本当にリアルなのかはわからない。映画マトリックスもそういう想像の上になりたっている話である。復活したイエスに出会った人に何が起きていたのか不思議に思う。復活のイエスがどういう存在であったかは謎である。次の瞬間に自分が同じような経験をすることになる可能性は限りなくゼロに近いが、ゼロではないと考えるのが信者の信仰だろう。多分、何かを問いかけたらきっとこう答えが帰ってくるだろうと想像しながら生きているのである。

福音のヒント(2)で書かれているように、15節から18節は派遣命令の記述に読める。弟子たちが超常現象を起こせたかどうかは分からないが、この道を説きなさいというメッセージは復活のイエスとの出会いによって心の深いところに入ったのだと思う。私の場合は、これがその瞬間というタイミングを特定できないが、ある日心にその言葉が届いた。届いたと思ったから洗礼を受け、教会というコミュニティの一員となった。『「福音告知」とは「神は愛であることを伝えること」』に共感する。

昇天に関して福音のヒント(5)は「イエスは目に見える姿、手で触れることのできる形ではいなくなりますが、同時に目に見えない形で、弟子たちとともにいてくださる」と書いている。まあそうかな、とも思うが、聖書の箇所をもう一度読み直すと「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と書いてある。実は、弟子の技ではなく(だけではなく)、イエスが弟子が福音告知をする時に働いていると書かれている。これは不思議な話だが、神は愛であるというのは、「福音告知」を受けた人(福音告知が届いた人)に愛が宿るということで、弟子の行動は本質的には伝道をなされた人には関係ない。「福音告知」はきっかけであって、その心のなかに愛が宿るのは主の技だ読むこともできる。

説得や論破では愛は灯らない。その人の心の状態が変化しなければいけなくて、それは人にはできないと考えたほうが良い。環境を整えることはできるかも知れないが、最後の一歩はイエスの働きがなければ機能しないと考えるべきだろう。

昇天というイベントは事実として本当にあったのだろうか?

私は、あったと考えても良いし、なかったと考えても良いと思っている。しかし「主は彼らと共に働き」は自分が福音告知、あるいは信仰告白をする時、主は私とともにおられて時が適していれば福音を届けられた人の心に愛の泉のスイッチを入れるのだろうと信じたい。信者にとって福音宣教は義務だが、福音宣教が機能するか否かは信者の実績ではない。それは主に帰するべきものだろう。一方で、コミュニティの維持にはエネルギーが必要だ。現代なら資金が必要で、それは福音宣教の環境を整えることでもある。教勢は目に見える指標になるが、その数字が良いことが行いが正しいことは意味しない。代替指標の罠に限らず愛から遠ざけようとする罠はそこら中に仕掛けられている。コミュニティは大事だが、直接的な神との関係を重視して誠実であることが望ましいと思う。

恐らく、自分が勝利者側(神の側)にいたいと思う思いからは自由になることはできない。しかし、マジョリティに属することとは全く違うのである。

※画像はGiotto di Bondone (1267-1337), Cappella Scrovegni a Padova, Ascension