今週はオンラインのDrupalConの週だった。
今回はリーダーのDriesがベルギーで参加するなど、様々なタイムゾーンで人々が参加していて東京時間ではスタートはちょうど夜中の12時からで、一日の通常プログラムが終わるのは4時位になる。4時間だと時間調整が可能な人なら仕事をしながら参加するのが可能で、グローバルなオンラインカンファレンスフォーマットとしては良い感じがする。
私にとって、今年のDrupalConのベストプログラムは最後のキーノートのSchool Needs Open Source, Now More Than Everだった。コミュニティ・スクールでLinuxを用いたオープンソースで学ぶ、活動するチームの発表だった。Youtubeに動画が掲載されていたので、ここに貼り付けておく。ぜひご覧頂きたい。
適切なライセンスの下にあるオープンソースソフトウェアには本当に大きな可能性がある。ライセンスを理解するのはやさしくないが、指導者が適切なものを探してきて提供すれば、それを自由に改変して使うことができる。PCは何かをやるためのツールだから、WindowsやOfficeソフトを買ってきて、やりたいことができるようになればそれでよい、と考えるのはひとつもおかしいとは思わないが、それはメーカーと客の関係で実は自由がないのだ。勝手にコピーすることもできなければ、問題があったらメーカーに修理依頼をするしかない。
一方で、DrupalやLinuxなどのオープンソースコミュニティは参加型で、不具合があれば自分で直して使うこともできるし、修正案を作ってオープンソースの元ネタの問題解決や機能拡張に貢献することができる。もちろん、長年に渡って進化してきているソフトウェアに手をつけるのは簡単なことではないが、手をつけて良い状態なのか、だめなのかは大きく違うのである。
COCOAはもともとオープンソースだった。コードが開示されていたので大きな問題点も指摘され、改善提案も出されていたが、途中でオープンソースでは無くなってしまった。不具合があれば調査して問題点を洗い出す能力がある人の目から隠されてしまったため、進歩は止まってしまうのである。今は不具合があれば厚労省や受注業者を責めるしか無いし、一方で権力は役所と業者が握る。ルールを歪める自由が権利者に与えられ、利権が生まれ、巣食うものが現れる。
参加型のオープンソースとて牧歌的な世界は成立しないのだが、大きな違いは透明性にある。変な部分も含めて、丸見えなのだ。おかしいことが目に見えるようになると、権利者への目も厳しくなる。緊張関係が生まれるし、ユーザーも当事者になって改善への相応の貢献が求められるようになる。
子供の時に、オープンソースに触れ、参加型でコンピュータソフトウェアに関わるようになるとものの考え方、見方が変わるだろう。
服は与えられたもの、買ってきたものを着るものだという思考法しかしらない子供と、買ってきたものほど立派ではなくても自分で作って着るものと考える考え方を身に着けた子供は違う。分業化が進むと、どんどん他人から提供されたものを使って、自分でやるべきことだけをやるという思考法に染まっていってしまう。その結果、より遠くに行けるようになるとも言えるのだが脆い。依存している何かが機能しなくなるとどうにもならないのである。
コンピュータってどうやって動いているんだ?と関心をもつ子供たちは一定の割合でいるだろう。興味をもった子供たちが自分で学び、さらに周囲の環境改善に貢献していく経験をできたらなんと素晴らしいことだろうと思う。このビデオに写っている子供たちもそれぞれ異なる道を歩んでいくのだろうが、オープンソースに触れ参加型社会の片鱗に触れたことは決して無駄にはならないと思う。
ちなみに、今年のDriesnoteでは、Contributor experienceというキーワードとして取り上げられていた。Drupalはdrupal.orgでContribution module等が取りまとめられていて、issue queueを通じて、改善に参加できる枠組みが準備されている。私が、Drupalに惹かれるような理由の一つで、透明性が高いところが気に入っている。しかしDriesは今のDrupalは他の優れたオープンソースコミュニティと比較すると劣位になっていると強い危機感を持っていた。gitlabへの移行を進めようとしていて、いわば共同参画型コミュニティとしての進化に本腰をいれる方向性を提示した。実現したいのは原点であるSite builders experienceと再確認した上で、その実現のためにはContributor experienceの向上が不可欠だと表明したのである。視点が秀逸だと思う。
サイトビルダー(Webサイトを創り育てる人)との関係は油断すると商用ソフトと同じように客と技術者の関係に堕ちてしまう。改善貢献が容易になれば、客と技術者というあっち側とこっち側という対立関係ではなく垣根のない参加型コミュニティが成立するようになる。もちろん、役割分担は不可欠だが、押し付けあう関係ではなく助けあう関係になれる。目指す理想は高い。ある意味で究極の自由だ。
ここ数年、DrupalコミュニティはDiversity and Inclusionに注目してきた。引いてみればContributor experienceも流れは同じだ。ガツガツと考える人には遠回りに見えるかも知れないが、恐らく間違いのない道なのだろうと思う。今回のSchool Needs Open Source, Now More Than Everは参加型コミュニティの可能性を感じさせるすばらしい発表だったと思う。