今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は待降節第3主日(2020/12/13 ヨハネ1章6-8,19-28節) 。
アドベント第三主日。クリスマスが迫ってきて、改めて母教会を失った悲しみに打ちひしがれている。何度もメッセージを送っているかつての母教会の牧師からは「なしのつぶて」だ。もはや私の牧師ではないが、不実の男に憎しみが湧いてくる。「愛と喜びに包まれた待望の時」と言われているこの時期にどうしてこんなことになってしまったのだろうかと思い巡らしている。今年の6月7日に役員として当然の使命として、牧師の教会総会決議違反という重大な問題を告発したのに、その事実を明らかにすることなく、実施すれば役員が資格喪失してしまうことを知りながら教会総会決議を撤回する白紙委任型の書面総会を実施し、その不備を上書きするためにさらに再度書面総会を実施して全てを闇に葬ったのだ。一時は距離を置くことを選択したが、家族も関わりを持っているため縁は切れない。切れないのであれば、反乱者の汚名を晴らすまで戦うことにした。牧師を追い出したいと思っているわけではない。事実を確認したいだけだ。過ちは誰でも犯す。事実を明らかにして過ちを許して、そこから再スタートすればよいのだ。もちろん、私が間違っている可能性は大いにある。だから、事実が明らかになって自分が間違っていたのであれば、それを認めて次に進む。私は2020年6月7日で止まった時計を動かしたい。
今日の福音朗読で私の印象に残るのはここだ。
23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
まあ、今の私の置かれている立場からすれば、かつての母教会に対して『主の道をまっすぐにせよ』と言いたくなる箇所だ。
もとい、今日はアドベント第三主日。心を鎮めて、聖句に向かい合いたい。
一旦第二朗読を読む。福音のヒントからそのまま引用する。
第二朗読 一テサロニケ5・16-24
16〔皆さん、〕いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。
テサロニケの信徒への手紙一は、パウロが執筆した書簡とされている。キリスト教はパウロの信仰を手本に育ってきたという考え方がある。パウロは生前のイエスには会っていない。彼はキリスト教の迫害者であったが、ある日現在のシリア・ダマスカスで復活のイエスに会って回心する。そのパウロが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と書いている。かなり救われる。自分の心がどろどろしている時に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言われてもそうはならないが、それが「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」というのは本当にそうだなと思う。誰かを排除することなく、誰もがいつも喜んでいる状態を目指して歩みを進めたいものだ。ちなみに、テッサロニキはエルサレムから直線距離で約1,500km、陸路だと約2,500km離れている。よくまあ、約2,000年も前に、こんな遠くまで伝道活動をしたものだと驚く。イエス自身は、南北200km以内の宣教活動だった。
今日の福音朗読はB年なのにマルコによる福音書ではなくヨハネによる福音書が取り上げられている。
福音朗読 ヨハネ1・6-8、19-28
6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
wikipediaで「ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている」と書かれている。この記事の直後にイエスがヨハネから洗礼を受ける。
マルコ伝では
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊” が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 という声が、天から聞こえた。
とあり、ヨハネ伝では、
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”
が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、 水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊” が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、 聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、 この方こそ神の子であると証ししたのである。」
となる。マルコ伝ではその次に誘惑の記事を経てから伝道活動に入るが、ヨハネ伝では翌日ヨハネの弟子2人がイエスの弟子になったという形で、物語が動き始めている。マルコ伝の記載では、イエスが天の声を聞いて惑った感じが伝わってくるが、ヨハネ伝ではイエスは最初から神の子である自覚がある。強いイエスとして書かれている。40年ほど前に入信する頃は、ヨハネによる福音書が福音書の中の福音書だと思っていて好きだった。スター、イエスである。しかし、今はヨハネによる福音書は教団の意図的な編集が最も強烈に現れている書物だと考えている。だから意味がないとは思わないが、書物である以上書き手の意図から自由になることはない。パウロの没年は60年頃で、最も早い福音書とされるマルコによる福音書が書かれたのは65年以降だと推定されている。第二朗読のテサロニケの信徒への手紙一は50年頃の書簡と推定されているので、もちろん、まだ正典は存在していない。パウロのような宗教思想と先行する3つの共観福音書を参照しながらヨハネによる福音書が書かれ、イエスの人間臭が取り除かれていると考えるのが適当だろう。カトリック教会はB年の待降節第3主日になぜヨハネ伝を選んだのだろうか?
福音のヒント(2)では「ヨハネ福音書は他の福音書と違って洗礼者ヨハネの生活や活動についてまったく述べていませんし、イエスがヨハネから洗礼を受けたという出来事さえ伝えません」と書かれている。今日まで気がついていなかったが、ヨハネ伝では確かにヨハネが水でイエスに洗礼を授けたとは書いていない。当時の教会の宗教観として、神の子イエスがヨハネから水で洗礼を受ける必要などあるわけがないと考えたのかも知れない。続けて(3)で「『証しする』という言葉は深く受け取りたい言葉です」とある。言語的に捉えると自分がクリスチャンである、キリスト教徒であると表明するのはキリストが復活したことが事実だと証言することに他ならない。科学的に見ればありえないことなのだが、そう証言する人は後をたたない。言ってみれば、パウロが言い出した信仰がずっと尾を引いているのである。なぜかといえば、それはキリスト教徒の中の立派な先達の行いの効果だろうと思う。人に愛を持って接し、敵も味方も分け隔てせずに治療したり、悲しむものの助けになるような行為があった。因果律的には、だから、ありえないことなのにその道を信じる人が絶えないのだ、と言い切ってもよいのかも知れない。
福音のヒント(4)では、「降誕節は『その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光』である幼子イエスを見つめる」とある。私は今は闇の中にいるが、少なくとも自分にとって幸いなことにイエスは復活し今も存在していると信じている。能力が足りなくて行動に至れなくても、愛に生きる道は示されている。それは死んでも生きる道だ。