新生活11週目 - 「神の子イエス・キリストの福音の初め」

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今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は待降節第2主日 (2020/12/6 マルコ1章1-8節) 。

アドベント第二週。依然としてコロナは猛威を奮っており、昨日の東京は過去最大の新規陽性者数であった。それでも、フランスパン屋さんでシュトーレンを買ってきてクリスマスを祝い始めている。

まず福音のヒントの福音朗読を引用する。

福音朗読 マルコ1・1-8

1神の子イエス・キリストの福音の初め。
 2預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

今日の箇所は、マルコによる福音書の冒頭で、イエスが世に出る前のところから始まっている。

ヨルダン川はヘルモン山からガリラヤ湖(ティベリウス湖)を経由して死海に流れ込む流れでエルサレムの東約30kmの距離が概ね死海の河口にあたる。現在の死海の水面は海抜マイナス430mで出口のない水たまりである。エルサレムは海抜800m程度の小高い丘で標高差は約1,230m、その標高差は青森県の白神岳相当の高さとなる。エルサレムと死海の間にはユダヤ砂漠がある。「ヨハネが荒れ野に現れて」とあるが、その場所は死海のほとりと考えられるので、エリコのあたりだったかも知れない。都心と御岳山とか丹沢とかが50kmから60km位なので、それよりは近いが、間に岩砂漠がある事を考慮すると、逆山岳信仰の行き先だったかも知れない。日本で考えると、ヨハネは霊験あらたかな導師で人が頑張れば到達可能だが、住むには厳しすぎるような地で宗教指導者として名を馳せたのではないかと思う。聞きつけた都会人が休暇を取って彼の地を訪れ、秘技としての洗礼を受けて都会に戻るというような存在だったと想像する。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」という記載がそんな当時の様子を想起させる。恐らく相当誇張されているだろうが、そういう事実はあったのだろうと思う。

若かったイエスは、そういった群衆の一人としてヨルダン川に向かったと考えることもできる。彼がその当時自分が神の子だと自覚していたか否かは誰にも分からない。人間として生まれ育ったわけだから、様々な人間関係もあっただろう。ともあれ、彼は決断してヨハネに会いに登って行った(物理的には下って行った)。その記述はこの直後にあり、アドベント第三主日の聖書箇所となる。だから、フライングになってしまうので、その中身に触れるのはおいておくとして、背景をさらって見ることにした。

マルコによる福音書第一章は今日の「神の子イエス・キリストの福音の初め」で続いて「イエス、洗礼を受ける」、「誘惑を受ける」、「ガリラヤで伝道を始める」、「四人の漁師を弟子にする」、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」、「多くの病人をいやす」、「巡回して宣教する」、「重い皮膚病を患っている人をいやす」とてんこ盛りのイエス伝の導入部である。

ざっくりと勝手な解釈をすると、迷える都会青年イエスは思い立って霊験あらたかな導師ヨハネに会いに行って秘技を受けた。インパクトがでかかったので、そのまま帰ってくるのはやめて一定期間砂漠をさまよって自分が宗教指導者であると確信した。自分の街でデビューするのは壁が高いのもあるし、思い切って100km強北のガリラヤに行って教えを説き始めた。イエス自身は無名だったが、多分、ヨハネの噂もあっただろう。遠い地だから実際にヨハネにあった人も稀で、伝聞でも良いからちょっと話を聞いてみたいと思った人もいたのではないかと思う。あえて悪い言い方をすればイエスはヨハネを踏み台にして世に出て「私について来い」と言ったと考えるのが自然な気がする。イエスに超常能力があったかどうかは本当のところは分からない。改めてあえて悪い言い方をすれば、彼にはツキがあって急速に信者を拡大していった、そう考えることもできる。福音書は死後に書かれたものだから、当然相当の美化と粉飾は含まれているはずだ。それはそれとして物語として解釈しつつも、本質的な教えは色褪せない。彼はデビュー後も様々な挫折を味わっている。その過程で人間イエスは成熟していっただろうし、仏教的な解釈をすれば、復活に向けてどんどん悟りを開いていったと考えても良いだろう。

「誘惑を受ける」の背景をGoogleで調べると、40日間の試練はここで行われたのではないかという伝承がある「誘惑の山」がヒットする。現在は「誘惑の修道院」が建っていて観光名所になっている。紹介ビデオがあるので、聖書を参照しつつ景色を眺めてみるのも一興である。

私は、イエスの真似事をやれば道がひらけるとは考えていない。人はそれぞれ違う。自由に生きて良いと思う。ウソをつく自由もあれば、それに伴う責任も生じる。ただ、私は何となく修行をすれば未来はひらけるんじゃないかという感覚から逃れられない。すごい修行をすればすごい人間になれるとか悟りをひらけるとか因果律に吸い寄せられてしまうのである。

今やるべきことは何か、やれることをやりましょうというのが「目を覚ましていなさい」ということだろう。他人から奇妙に見えるようなことがあったとしても、確信があるならその道を進むしか無いのだと思う。

ちなみに検疫の語源は40日で、荒野の誘惑から来ているという説もあるらしい。神の国に入るためには40日間の試練、検疫期間を経なければいけないという考え方もありかも知れない。

画像は、Wikimediaから引用させていただいたもの。