今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、王であるキリスト(2020/11/22 マタイ25章31-46節) 。
「王であるキリスト」という見出しは、ルカによる福音書 23章35~43節がふさわしいと思うが、カソリックの教会暦で整理されているので、この箇所でもその見出しがつくのだろう。新共同訳の見出しは「すべての民族を裁く」である。並行箇所はない。福音のヒントで「マタイ福音書におけるイエスの最後の説教」と書かれているように、このあとは受難の物語と復活の記述になる。章で量ると25章の終わりで89%、9合目という場所である。マルコによる福音書だと13章のあたりとなり、最後の説教は「目を覚ましていなさい」だ。ルカによる福音書だと21章、同じく最後の説教は「目を覚ましていなさい」だ。マタイによる福音書では24章に「目を覚ましていなさい」が出てきている。「目を覚ましていなさい」が最後の説教だったのかも知れず、マタイによる福音書の編集者の意図で加えられたものであるのかも知れない。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、
その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、 羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、 天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎな さい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、 のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、 牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、 のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、 裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、 お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、 悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、 のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、 牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、 病気であったり、牢におられたりするのを見て、 お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、 わたしにしてくれなかったことなのである。』
こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
メッセージは明確で、因果律を説いている。「はっきり言っておく。
「わたしが飢えていたときに食べさせ、
「目を覚ましていなさい」では、他との比較は問題にならない。いつその日その時が来るかは誰もしならないのだから、その瞬間、その瞬間、望ましい行いをし続けなさいという勧めである。自分のできることと自分のやったことが比較の対象となる。今日の箇所にあるようにその行動の評価で救われるか救われないかが決まるのかも知れないが、そこに焦点を当ててしまうと愛が競争に化けてしまうように思う。権威者の脅しに屈することなく、静かに善いと思うことをやれば良いのだと思う。自分で、よく見て、よく聞いて、確からしいことを追求していく以外に道はない。ヒントはたくさん落ちている。偽預言者もいるだろう。でき得る限り、飢えているときに食べさせ、
第二朗読のコリントの信徒への手紙一の15章には新共同訳では3つの見出しがついている。キリストの復活、死者の復活、復活の体 である。福音朗読で言及されている終わりの日は、死者の復活のタイミングであり、羊と山羊に裁かれる時ということになる。パウロは復活のキリストに会ったと言明していて、一般人も全て復活すると説き、復活の体は今の身体とは異なると述べている。
先週の日曜日11月15日に父が他界した。私には死後の具体的な事はわからないが、キリストの復活は自分が19歳の時に信じることにして受洗した。生前に父に接していたような形で来るべき時に復活の体で会うことになるかはわからない。父との間で守れなかった約束もあるし、父の意向に沿いたいと思って努力したがなせなかったことが多くある。父の死に向けた準備はでき得る限り丁寧に意向を確認しつつ進めてきたし、最期の時期の環境を整えるという意味では、完璧などありえないが、良い状況で過ごしてもらえたと思う。とはいえ、彼が財を築いてきたから実現できたことが多く、私が貢献できたことはあったとしても僅かだ。無宗教者であった。考え方にも差があって何度も口論した。しかし、一旦生あるこの世での関係は終わった。復活を信じれば関係上の負債は消えないが、まずは、生きている人の方を向いて次を考える。
私には、壊れてしまった人間関係が山程ある。忘れてしまいたい関係も、この世では修復不可能に思える関係もある。死者の復活を認めると、壊れてしまった人間関係も今保たれている人間関係も死とともに終わったものにはならない。生きている人間同士の人間関係のままその関係が復活するとは思えないが、チャラになるわけではないだろう。おぼろげに見えていたものがさやかに見えるようになった時にはなぜそんな些細なことで対立していたのかをつまらないことのようにお互いに感じられるようになるのかも知れない。そうなれば嬉しいと思うが、どうなるかはわからない。いずれにしても、生きている自分にできることは、自分のできる範囲で最良と思われる道を進むことだろう。他人と比較する誘惑から自由になりたい。人間関係をバランスシートで考えるようでは自由にはなれない。
画像は「第二朗読 一コリント15・20-26、28」のコリントスからある程度近いアテネでちょっと立派な店に入って食べたもの。味は思い出せない。恐らく、欧州やアメリカを含め、どこかで私の食事を作ったりサーブして下さった方の中にも新型コロナの犠牲者はいるだろう。一期一会という言葉があるが、生きていく過程で、膨大な数の関係が蓄積されていく。一つ一つが愛あるものであったらよいと願う。