死に接する時に愛とはなにかと考えさせられる

hagi に投稿

新約聖書コリントの信徒への手紙一13章に愛についてパウロが書いたとされる言葉が記されている

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

人は必ず死ぬ。近しい人の死が間近に感じられた時は、どうするのが良いのだろうと真剣に考える。本人の希望をそのまま実現しようとするのが良いとは限らない。また、死が避けられないと思った時は、その死の後に残される人のことのことも考える。今日Facebookでノマドな人が孤独死した時に死後の対応についてパスポート等で意思表明ができる仕組みがあったら良いのにという意見を書いていた。教会に通っていると、亡くなった方はキリスト教で葬式を出して欲しいと希望していたのに、家族が寺で送るケースはしばしば見るし、逆のケースもある。おそらく、一つの正解はない。個人の自由を尊重しようと考えると、可能な限り本人の意志に沿った対応をするのが望ましいと思う。公衆衛生上の問題などが生じないなら、墓はいらないと考える人にその自由はあって良い。しかし、残された人が故人の墓を望む場合は、その残された人の意思も尊重されて良い。死んでしまった人は自分自身の力でその先のことをコントロールすることはできない。遺言のような制度で全てをカバーすることもできはしない。ルール遵守で全ての人を救うことはできない。

パウロは「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」と書いている。おそらく、行為としての一つの正解がなかったとしても、その形は様々でも愛の法則は働くという意味だろう。聖書のこの箇所を読む度に、自分には愛がないと思わされる。また、どれだけたくさんの愛をたくさんの隣人から受けてきたかを考えさせられ、天秤にかけたら明らかにもらったものの大きさのほうが圧倒的に多いと感じるのだ。もし、ゼロサムゲームだったら確実に債務超過だ。

愛の法則が働いている時には、その世界はおそらくゼロサムゲームのルールに従っていない。

愛と公衆衛生とSDGsには通じるものがある。自由を裏書きする責任は突き詰めれば愛なのだろう。個々の判断が分かれることより重要視すべき原理なのだと思う。公衆衛生やSDGsのように代替指標を設定する事はできるかもしれないが、それは代替指標であって正義ではない。