新生活6週目 - 「幸福なるかな、心の貧しき者」

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今週も福音のヒントを参考に過ごしている。今日は、諸聖人 (2020/11/1 マタイ5章1-12a節)  。

自由学園では文語訳聖書を使っていたので、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」というリズムが心に残っている。「心の貧しい人々は、幸いである」より印象が良い。表現はインパクトを変える。

山上の垂訓と題されるこの箇所はマルコによる福音書には出てこない。今まで、その事実を意識したことはなかったが、福音のヒントに基づいて自分で考えながら聖書を読もうと思ったことで、その意味を考えさせれることになった。反転学習バンザイ、である。ちなみに、主の祈りもマルコによる福音書には出てこないようだ。

福音のヒント(1)では、「山上の説教は、イエスがある時に語った長い説教が記録されていたというよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです」と書かれている。つまり、マタイによる福音書の筆者が説教の形に編集したと考えるのが自然だろう。この一連の話を行った山上の説教そのものが存在しなかったと考えても良いと思う。一方で、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と発言したことはあるのだろうと思う。8つの幸せを説いたかどうかは分からない。福音のヒント(2)でルカによる福音書の並行箇所では3つの幸せとなっている。ルカにも編集意図があるので伝承等からあえて一部を選んで記した可能性はある。

「心の貧しい人々は、幸いである」の「心の」は正直言って良く分からない。福音のヒント(3)にあるように「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)の方がはっきりしているように感じられる。「あなたがた貧しい人は幸いだ。神の国はあなたがたのものだ」と読める。貧困にあえぐ人にとって、あの世では貧困でつらい思いをすることはないと説かれれば希望になる。マタイによる福音書では幸せについてのみ触れているが、ルカによる福音書では、しばらく後で、「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である」と書かれている。私自身の勝手な思い入れとしては、貧困撲滅をめざせと問われているように感じていて、気持ちが良い。しかし、現実には自分が「富んでいるあなたがた」の一部になりたいと願っていることを知っている。ある程度富んだ上で貧困撲滅に力を出したいと思っていことになる。現実には目の前の一人を助ける働きもあれば、多くの人を救う仕事もある。薬の開発にはお金も時間もかかるが、成功すれば多くの人を救う。現代社会では、儲けを狙う投資家が金を賭けなければ安全性を高める治験の資金は得られない。賭けに勝てばさらに格差は広がるが、それでも病に苦しむ人の絶対数は減少する可能性がある。社会的貢献が大きい「富んでいるあなたがた」は不幸なのだろうか。たくさんの不幸の解消に貢献した富者があの世で不幸になる教えは何か変だ。

マタイによる福音書の記事では、心の貧しい人々に続いて、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々が出てくる。ルカによる福音書では、貧しい人々に続いて、今飢えている人々、今泣いている人々が出てきて、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」と書かれている。「その日」を待ち望みたくなる。

想像するに、「あなたがた貧しい人は幸いだ。神の国はあなたがたのものだ」という発言はあったのだと思う。しかし、それはどういう意味ですかと問い始めると意外と難しい。マタイによる福音書もルカによる福音書もその問いに答えるような記述が必要になって書かれたと私は考えたい。

私は正直に言って、あの世あるいは死後の世界の事は分からない。あるかないかもわからないけれど、あの世が存在していてこの世とつながっていると考えるほうが自分を含めこの世で今生きている人たちにとって具合が良い点が多いと思っている。そして、自分としてはキリスト教を信じると自発的に決めた。神の国が貧しい人々のものだとするのであれば、この世を何とか今貧しい人々が満足できるような世の中に近づけていくのが望ましいだろうと考えるのが良いと思う。福音のヒント(3)では、この箇所を「神は決してあなたがたを見捨ててはいない」という福音のメッセージとして聞いてはどうかと奨めている。この世の全てがあなたを見捨てたとしても、神はあなたを見捨てないというメッセージである。最近良く目にする"No one left behind"と同義と言ってよいだろう。現実には誰も置いてきぼりにしないことはできないが、その方向に向けて世界を変えていく努力はできる。それは、Make America great againとか、都民ファーストとか、中華思想とは真逆の方向にある。宗教的にも「わたしの神」が「あなたの神」に優越しているなどと考えてしまえば、"No one left behind"の方向には動かない。ただ、「神は決してあなたがたを『誰一人』見捨ててはいない」を信じて、私も誰一人見捨てない、自分にできる限りのことをするという規範が与えられれていると信じるのである。実際にはできないことばかりだけれど、もしそれが行動規範になっていたとすれば、それが幸いな「心の貧しき者」を意味するのかも知れない。その解釈は福音のヒント(4)と通じるものかも知れなくて、神と向かいあいながら生きるという行動の推奨ととれなくもない。ふと「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」というフレーズが頭に浮かんだ。