新生活5週目 - 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」

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古い家を出て新しい旅に出るといって5週目。福音のヒントを参照して過ごすという意味では4週目。年間第30主日 2020/10/25 マタイ22章34-40節

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

最も重要な掟を守っていればあとは大丈夫という事にはならないが、もし最も重要な掟があるのであれば、せめてそれだけでも守っておきたいと考えるのは自然なことだと思う。福音のヒントで書かれているが、1つ目の「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は申命記6章4-5節にある。申命記5章には十戒が書かれていて、その第一戒の解説記事の中心部である。ちなみに、十戒は出エジプト記20章にも出てくる。出エジプト記だと、その直後の解説で最初に出てくるのは偶像礼拝の禁止で、「あなたの神、主を愛しなさい」という言葉は出てこない。福音のヒントでは、「申命記の中心部分は、この荒れ野の旅の終わりにモーセが民に向かって、遺言のように語った律法についての説教です」とあり、十戒を含めた振り返りと考えれば、やはりまず「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」を強調しておかなければいけないとモーセが考えていたことを記してあると考えても良いと思う。

福音のヒントでは、特に触れられていないが、「あなたの神である主」、「我らの神、主は唯一の主」の「あなたの」神は気になる。旧約聖書では、「聞け、イスラエルよ」とあるように神はイスラエルとの関係性において神だと読める。

並行記事は、マルコ12章28-34節とルカ10章25-28節。マタイとマルコの記事には「最も重要な掟」という見出しが付けられていて、ルカの記事では、「善いサマリア人」という見出しがついている。調べてみて、有名な善いサマリア人の話は、「最も重要な掟」の解釈としてルカにだけ出てくる記事であることに気がついた。「善いサマリア人」の話は、異邦人伝道には都合の良い話で、ルカによる福音書がパウロに親しい人によって執筆されたと考えると何となく納得がいく。逆に、マタイやマルコに出てこないことを考えると、本当にイエスがサマリア人の話をしたのか疑いたくなる。生きていたイエスはイスラエルを見ていたのか、すべての人を人と見ていたのかは良く分からない。ルカによる福音書に従えば、正統性より行いが重要だということを「最も重要な掟」で主張していると取ることができる。

「あなたの神」はどう解釈すればよいのだろうか。八百万の神の話はおいておいたとしても、わたしの神と例えば同じ信仰を持つと考えている隣人Aさんの神は本当に同じなのだろうか。あるいは、キリスト教を信じないBさんの神はわたしの神と同じなのだろうか、それとも違うのだろうか。そもそも神はいるのか。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』は十戒を基本法とするイスラエルの法を遵守せよと言っていると解釈するのが自然なので、現在の日本の法制度とは様々な乖離が生じる。神に従うことを言語化したものが法と考えれば、日本法に則って生きるわたしの神はイエスが語った民の神は違うという話になる。前回の論争の「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」が再び気になってくる。「あなたの神である主を愛しなさい」は遵法を超えた教えだと捉えるほうが自然に思えてくる。そうすると、律法の専門家のように「イスラエルの法」すら、「あなたの神である主を愛しなさい」に劣後することになるということだ。出エジプト記の十戒のまくらには「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とある。神のほうが、私はあなたの神であると言ったという建て付けになっている。信仰告白は、神が現れてわたしはあなたの神である、だから信仰告白せよという言葉(幻覚)に基づいて行う行為と考えてよいだろう。本当のところ、隣りにいる人の神がわたしの神と同じものであるかは分からない。神はモノの延長線上にあり、決してモノではないから出エジプト記の十戒の直後に偶像礼拝の禁止が出てくるのだろう。形を作ってしまうと、神を「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」愛することが叶わなくなる。破壊的な解釈をすれば、神は規定できるものではないので神を「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」愛することは具体的な行動としては何も意味していないと考えることもできる。真剣に考えた結果、意見が食い違うことなどいくらでもあるからだ。

一方、『隣人を自分のように愛しなさい。』は行動規範で相対的なものだ。こちらはコトの世界のルールで、2者間の関係性で決まる。善いサマリア人の話は、あなたにその能力があるなら苦しんでいる人を救いなさいという話で、そこではその人の神があなたの神と同じであるかどうかは関係ない。あらっぽく解釈すれば、同じ神を信じているかどうかなどどうでも良いのだ、別け隔てなく隣人愛に生きよという教えととれる。

じゃあ、お友達優遇は隣人愛かという話になると、それではまずいだろう。この時に、もう一度『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』が効いてくる。あなたの神である主を愛しなさいというのが一番目にあると、神の下の行動に照らして考えなければいけなくなる。一見、好ましい隣人愛と思われる行為が第一の掟を守っていることになっているか反省しなければいけない。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、」自分のなすべきことを考えるのをサボってはいけないという教えとなって影響力を及ぼす。

「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」という言葉は、セットで一つ、あるいは一つの真実を2つの側面から見たものと解釈したいと思う。「わたしの神」の正義は真摯に向きあっても、「あなたの神」の正義と一致するとは限らないが、誠意をもって隣人愛に生きよと言われていると読んだ。

ルカによる福音書の記事では、『彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った』とある。「あんな人たち」と言った瞬間に「最も重要な掟」を破っていることになる。例えばPro-lifeやPro-choiceの是非を問うのは、わたしの神とあなたの神が違うという対立の構造を招く。真剣に自分の頭で考えてそういう結論を出すのはしょうがないことだ。しかし、同じ人間である原点に立ち返って隣人愛に生きよというのがキリスト教の教えだと思う。差別の罠に落ちないように自分を律するのは容易なことではない。

写真は2018年のテッサロニキの丘から眺めた景色。パウロがこの地で伝道した頃はどのような景色だったのだろうか。