古い家を出て新しい旅に出るといって4週目。引き続き福音のヒントを参照して過ごしている。今週は年間第29主日(2020/10/18 マタイ22章15-21節) 。今日の聖書箇所は、マルコによる福音書12章13-17節、ルカによる福音書20章20-26節が並行箇所で、新共同訳では接続詞を除くと3箇所とも「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と全く同じ訳が当てられている。問いは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか(マタイ)」である。並行箇所間に特段の差異は見当たらず、聖書箇所の解釈は福音のヒントの(1)、(2)、(3)は異論のでない安定的なものだと思う。(4)、(5)は生きている社会や時代の文脈から自由になることはできないので、解はないと考えたほうが良いだろう。
多分、中学生の頃だったと思うが、この聖書の箇所を学んだ時は痛快さを感じた。大して深く考えたわけではないが、小利口な権力側の人間が実力もないのに筋論をふっかけたのに対して、イエスが賢く回答したと感じたのだ。イスラエルはローマの支配下にあったわけだから、納税拒否はありえない。現実的には払うしかないのである。福音のヒントの(6)に共感するのは、後半の「神のものは神に返しなさい。」の部分にある。抗うことのできない現実を前にしても、「神のものは神に返しなさい」とあるべき姿の追求に意識を向けさせた鋭さだ。ヘロデ派には自民党的な腐臭を感じるし、ファリサイ派には冷酷さと現実軽視を感じるが、どちらにも属さず、本質を見よと取れる。
この聖書箇所を学ぶ時、現代においてこの「神のものは神に返しなさい」という言葉をどう捉えるのがポイントだと思う。前々週のぶどう園と農夫のたとえの時に「主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと勘違いしてしまった」という言葉に強く反応したが、神のものは神にという言葉は、本来預かっているものを自分のものだと勘違いしないように注意しなさいという意味にも取れる。与えられた生命は自分のものではなく、神から預かったものという考えに立てば、生き方自身が問われることになる。どんな意図があって自分の生命は神からゆだねられたのか。運命論的な解釈もあって、国家の兵士となるために生まれたと考える人もいるかも知れないし、自分の頭で考えて良いと思うことをするところまでゆだねられているという広く自由を捉える考え方もあるだろう。もちろん、神など存在せず、自分の生命は単なる事象であって、一度生まれたからには全て自分のものだと考える考え方もあるだろう。
私はファリサイ派もヘロデ派も属すれば自由を放棄させる集団だと思っている。国家と違って、ある程度自分で選択できる集団だと思う。教会や教団も変わらない。献金は税金と変わらない。教会堂という資産の維持費や聖職者の人件費を賄うことができなければその組織は無くなっていく。逆に十分な資金が集まれば、投資や再配分に向けられることになる。他のこの世の組織と変わらない。変わるとすれば、「神のものは神に」の意味を教えてくれる(ように見える)部分にあるだろう。人による説教は効果が限定的なので、聖書や書籍、さまざまなコンテンツが経済的に成り立つことによって宗教は生き残る。宗教も政治団体も競争から逃げることはできない。ヘロデ派を世俗派と捉えれば、ローマの支配を是として、その前提のもとでみんなでうまく生きていこう、あるいは利潤を掠め取ろうという考え方だから、その派閥に反するものを排斥し、権力の確立、独占を目指す。十分に力をつければヘロデもローマもいらなくなる種類の集団で、理念ではなく勝ち馬に乗るのが合理的な選択になる。ファリサイ派は、実態はともかく、ルール、理念を上に置くという考え方だから、本質的に自由を制約する方向に動く。二元論的に捉えれば対極に位置づけられるけれど、どちらも覇権を目指して活動しているので同じ穴のムジナと言える。
現実には人は一人では生きていけないので、どうしても集団を形成することになる。最近だと、アメリカか中国かとか、トランプか反トランプかとか、安倍かアンチかなどという対立の構造が発生する。「神のものは神に」は、そういう二元論的な対立を超えよというメッセージと取るのが良いのだろう。当然、人によって見える世界は変わり、恐らく単一の真実は存在しない。
一人で生きていけないとすると距離感はともかく何らかの集団と関係をもつことになる。自由を得たければ孤独を恐れるわけにはいかない。人間イエスが感じていた孤独感は相当大きかったかも知れないと思う。
すべての人に「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」という問いが与えられていて、同時にその問を無視する自由が与えられているのだと思う。神という言葉を用いるか否かを別として、その問は、誰の頭にも時折訪れる問いだ。たまには、無視し続けずに向かい合ったほうが良いだろうと思う。
付録
「第一朗読 イザヤ45・1、4-6」は第二イザヤのバビロン捕囚からの開放のシーン。背景は、第二イザヤの預言者像 - 関西学院大学リポジトリを読んで学んだ。バビロン捕囚のユダヤ教へのインパクトについては、世界史の窓の用語集のバビロン捕囚がわかりやすい。「宗教史では捕囚以前を「古代イスラエル宗教」または「ヤハウェ宗教」といい、捕囚以降の律法を中心とした宗教を「ユダヤ教」と言って区別している」と書かれているが、この時期にユダヤ教は変質したのではないかと思うようになった。バビロン捕囚で絶たれたダビデ王朝という血のつながりと神の民を結びつけることは不可能になり、教義、律法によるつながりに移行していかざるを得なかったのだろう。王による人治から官僚優位な統治形態への移行と見ることもできる。旧約聖書が文書化され始めた時期とも重なることを考えると、この時の編集者が過去の歴史についても再整理していると思われ、モーセ五書もこの時期から振り返って再整理された歴史と考えたほうが自然に感じる。預言者の書物は旧約聖書では後半になるが、この時期に旧約聖書の視点があって過去と未来を記述していると考えても良いかも知れない。
「第二朗読 一テサロニケ1・1-5b」は、現在のギリシャ、アテネの近くのコリントスにいたパウロからテッサロニキの信徒に宛ててAD52年頃までに書かれた書簡とされている。マルコによる福音書が65年頃以降と考えられているので、福音書より前に書かれたものだ。パウロは生前のイエスの弟子ではないので、イエスの言動に直接接しているわけではなく、もともとファリサイ派に属して反イエスの立場だったのが回心したとされている。神は選民のための神々の中の神ではなく、異邦人にとっても神であり、ユダヤ人に限定せずに新しい神の律法を伝えることにしたということだろう。今までは、ついつい説教に学ぶという受け身の姿勢から聖書を読む習慣が染み付いているのだが、自分で能動的に調べながら読み始めると違った景色が見えてくる。なぜ、彼は伝道できたのか、福音書も存在しなかった時期に何を語ったのか興味深い。自分が極めてきた律法の世界を超えた外からの視点が与えられた時に突然いろいろなことが見えてきたのではないかと想像する。「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」とあるのは、その視点が与えられれば、誰にでも真実は見えてくるはずだという彼の経験に基づく信仰だったのかも知れないと思う。
画像は、一昨年に訪問したテッサロニキの遺跡。