決めたルールをやぶると言うこと

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聖書には、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(マタイによる福音書12.7)という教えがあって、決まっているルールをただ守っているだけでは意味がないと説かれている。その前の1節に「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」という事実が書かれており、その事実を追求する律法学者に答えて、イエスが答えたのが「(その)言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」という返答である。

私は、すぐ律法学者のように些細な事を糾弾する。人間的にも敵を作ることになるし、心を乱すことでつまづきの石となりかねない。長年、悩んできたし、なぜそういう人になってしまったのか、なぜ自分は自分を止めることができないのかと思い悩んできた。

私は、改めてこの箇所を別の角度から見る。イエスは弟子たちが法を犯しているのは承知していただろう。そして、弟子たちも、安息日のことは知っていなかったはずはなく、イエスといることで恐らくこの世的に言えば緩んでいたのだろう。

さて、この良い話に水を指すようだが、じゃあ簡単に法を破ってよいのかと言えば、イエスもそうは言っていない。

私なりに安易な解釈をするならば、「決められたルールをやぶれば当然糾弾されてしかるべきだ。しかし、糾弾されてしかるべきであったとしても、やぶるべき時にはやぶればよいのである」。ただし、その前提はやぶればよいと言った人は、その犯した事実から逃れられないことを覚悟していなければいけない。

私が糾弾するシーンでは、覚悟しているから、そんなことはどうでも良いと思っているのか、あるいは、単にルールをやぶったことに気がついていないだけなのかは、心の中の話だから分かり得ない。覚悟していても、気がついていないだけでも、結局心の中か発言内容かに関わらず、時が来れば明らかになる。とは言え、今は、まず人命第一で行動したい。