最近はほとんど耳にすることはなくなったが、トリクルダウン理論という言葉があった。「大企業や富裕層の支援政策を行うことが経済活動を活性化させることになり、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となる」とある。政治的に解釈すると、票を取りまとめて支援が得られる(あるいは政党に金をもたらす)少数の対象に集中的に国の金を投じて、下流に流せばみんながハッピーになるということになる。この考え方に立つと、対象となっている大企業や業界は、何とか立場を守ろうとして排他的になり、新しい構造が生まれることを全力で阻止することになる。自分の利権を守る範囲で新しいことに取り組む可能性は残るが、檻の中での挑戦になる。権力者にとっては、非常に具合の良い統治方策となり、そういう環境に適したプレーヤーは恩恵を得られる。一方で、直接恩恵を得られない人は、利権を有している主体に隷従する道を選ぶことが短期的に合理的な選択になる。それは、ガキ大将にへつらうようなものだ。処世術的には楯突くのはバカのやることだ。より強いガキ大将が現れたら、そちらにさっさと寝返るのが生き残りの極意となる。
雇用を守るというのは、雇用者を守るとうことだ。雇用者を守ることによって、被雇用者に金が回るのだから失業率を下げることが優先事項になる。質が低くても(給料が安く雇用条件が悪くても)雇用は雇用だと考える。今、安定的で好条件の職に就いている人からすると、当然雇用を守るという政策は良い政策である。しかし、現実には競争力を失った企業や産業をそのままの構造で守ることはできない。Social Distancingが全人類が守らなければならない規範になったとしたら、そのままの形で今の夜の店を守ることなどできるわけはないし、するべきでもない。主権者の立場に立てば、何で自分たちの税金を夜の店の維持に使うのかと疑問に思うのは当然である。しかし、自分が関係者であれば何とか守ってもらいたいと考えるのは少しも変だとは思わない。
もう一つの考え方は、「人を守る」を起点にするものだ。極論すれば、支配構造を優先するか、愛から考えるかだ。貧富、立場に関わらずにまず全ての自然人に生活に必要な資金を供給せよ、というのがその一番単純な結論となる。単純化のために人口を1億とすると、一人10万円を例外なく配れば、10兆円になる。日本という国には過去に積み上げた膨大な借金はあるが、貯金はないのでうまく借金を増やすことができれば実施は可能である。今まで同様に将来世代につけ回すことを主権者が了承すれば良い。ただし、日本は日本だけで生きているわけではないので、円の価値が暴落すれば、エネルギーが入手できず多くの人が死んでしまう。愛ある政策を実施すれば皆が幸せになれるという程現実は甘くない。
今、私達が直面しているのは、COVID-19エピデミックに手を打たなければ確実に大量の死が待っているという現実である。一方で、COVID-19と無関係な肺炎で年間10万人が亡くなっているという事実があり、まだ良くわからないことが多いので予断は禁物だがCOVID-19を放置しておいても人類や日本が滅ぶことはないだろう。体力がない地域では、外部からの支援がない限り放置以外の選択肢はない。極めて大きなダメージを負うかも知れないが、その後急激に伸びるかも知れない。先の戦争で考えたら、日本もドイツも猛烈なダメージを負い、子供の餓死も多く出たが、米国をはじめ多くの支援を得て信じ難い経済成長ができ、国民皆保険が機能して、長寿が可能となる国に変わったことを思い出してみれば良い。相手は国や人ではないが、SARS-CoV-2との戦争状態にあると考えた方が良い。
短期的には、COVID-19の人命被害を最小化する方法は分かっている。人との接触を止めれば(集団隔離すれば)感染は抑えられる。同時に、生存のための生活資金を供給すれば、飢えることなく閉じこもることができる。集団隔離が遅れれば確実に感染者は増加して死人が出る。無理やり集団隔離して生活が維持できない人が増えれば(飢えれば)死人が出る。常識的に考えれば、うだうだ言わずに金を撒いて、まずエピデミックを止めるのが自然な反応だろう。そういう意味で、現在の政府、与党は短期的に見れば殺人鬼と一緒である。国会は、緊急立法を行って行政を矯正する対処をすべきだろう。
ただ、長期で見ると別の側面がある。武漢が封鎖解除になったので、何が起きるかを見極めるのが良いと思うが、常識的に考えれば、再度感染者は出る。外部から来た人が原因だとしても、出ないということは考え難い。エピデミックを起こさないように対処ができるかどうかが問題となる。まず間違いないのは、COVID-19エピデミック前の日常は戻ってこないということだ。
現在の与党は「少数の対象に集中的に国の金を投じて、下流に流せばみんながハッピーになる」というモデルで統治をしていて、その意味での保守というのは構造を変えないという意味である。実際には、環境は変化していて元の日常は戻らないのだ。その前提で、変化を積極的に許容していかなければ、国際的に見れば今のジリ貧状態がさらに続くだけである。保守は亡国なのだ。
今回のCOVID-19による社会環境の変化は目に見えやすいが、もう少し引いてみると情報処理技術の劇的変化が中核的変化と考えたほうが良い。何が変わったのかというとインターネット普及前は1人の人の目が届く範囲は数人だったのに対して、技術の力を使えば、1億人でも100億人でも監視することが可能になったという現実である。さらに大きいのは、技術的には100億人の人が、全て平等に情報にアクセスできるようにするのが可能になった点だ。つまり「少数の対象に集中的に国の金を投じて、下流に流せばみんながハッピーになる」が少数の権利者が自分の分を上前としてはねて2次レイヤの権利者に流し...という構造になっているのを数値的にも(キャッシュフローを)透明化することが技術的に可能になったという事だ。また、保有資産評価額(ストック)を個別管理することも制度さえ整備できれば技術的には可能になっている。
私は、人権としてのプライバシーを念頭におきなから、階層管理モデルである「雇用を守る」政策ではなく、「人権を守る」を起点とした透明な経済運営モデルを模索する時期が既に到来していると思っている。その気にさえなれば、時間はかかるがきっとできる。緊急対策と引き換えに権力支配モデル強化を許すような判断はしない方が良いと思う。与党が言う「雇用を守る」は自己保身でしか無いと考える。情報非開示の姿勢によく現れている。