ヘブライ語の普通名詞のサタンは「道をふさぐもの」だと書かれている。あるいは訴える者という意味があるらしい。今日、ふと、サタンとは正義を説くものではないかと思い当たった。もう少し言い換えると正義をそそのかすものと思ったのだ。
心の内面は分からないが、相模原障害者施設殺傷事件の被告はあの殺人は有意義だったと主張している。本当に内面は外からは分からないが、彼は本心から正義の行為と考えているらしい。信じ難いが、彼にとっては同じ人間とはどうしても思えないと今でも考えているようなのだ。
一方、中には被害者が殺害されたことで、その家族が楽になったと考え、内心で良かったと思っている人もいると思う。障がい者に限らず介護は過酷となるケースは少なくないから、誰かがお亡くなりになった時に、その死がご家族のためにある意味で良かったと思うことは私にもある。そういう意味では、彼の正義は、その思いの延長線に位置づけることができると思う。
正義は恐ろしいものだ。本当に正しい事が何かは別にして、誤った正義が心に入ってしまうと、道を誤ってしまう。そして何が正しいかは、実は誰にもわからないのだ。
聖書にでてくるサタンは、人を試みる。様々な困難を与え、ふるいにかける存在だ。おどろおどろしいイメージがあるが、見方を変えれば神の試験官だ。律法はテキストでサタンは様々なひっかけ問題を出す。試験を受ける人からすれば嫌な奴だ。現実世界では、律法を完全に守りきれることはない。序列はつけられるかも知れないが、原則として全ての人が落ちる。
キリスト教では、愛がその守れない律法を超える唯一のものだと教えている。私はその教えを信じた。
実際には、この世の教会組織は正義を振りかざす。自分こそが閻魔だと主張するのだ。そこから自由になりたいと私は思う。