地元以外に住むサラリーマンの退職は移住と同じ意味を持つ

hagi に投稿

2019年も大晦日となった。

先日塩尻で懇親会の席で、ふと「サラリーマンの退職は移住と同じだ」と発言したのが、自分の頭から離れない。

2013年の3月に前職を辞し、創業してからまもなく7年になる。思い返すも恥ずかしいことばかりだが、5年目位から少し変わってきたと思うことがある。それは、ほんの少しだけれど地元の人になったという手ごたえが感じられることだ。

私は、父が転勤族だったこともあり、地元が存在しない。小学校の時も転校した。小学生でも、その地に根を下ろした家の子とは何かが違うのは感じていた。中学の時は寮のある私立の学校に進学したので、地域に根差した関係はそこでも得られない。就職してしばらくして、小さなアパートで一人住まいをするようになって、近くの商店街で食事をするようになって漸く街の顔なじみができるようになったが、それはお店と客の関係を出ることは無い。

結婚して、引っ越して、30代でマンションを買って、この地に移り住んでもう20年以上になる。しかし、サラリーマン時代(雇われ役員時代を含む)は、本当に多忙で朝は早くに家を出て通勤、帰宅は深夜が普通だった。だから、近隣に、知り合いなどできはしない。別に、必要とも思わなかった。今でも、無くてはならないとは強くは思わない。

なぜか。それは、自分の居場所があるからなのだと思う。会社にいる時は、会社は、そこにいて良い場所である。家庭ももちろん居場所となる。私には、教会というコミュニティもある。居場所は複数あるのだ。一つ以上は必要だと思うが、たくさんなければならないわけでは無い。しかし、会社を辞めて一つコミュニティを失う(捨てる)と、ある程度の時間を経て、コミュニティに属しているという感覚が非常に柔くほとんど幻想に過ぎないことが分かってくる。会社は、本当は居場所でも何でもないのだ。そう思わせる、縋り付きたくなるような場所でしかない。勤めている時には、ちっとも分かっていなかったが、国と同じく、想像の共同体にしか過ぎないのだ。

少しニヒルだが、地域のつながりも、実際には極めて脆弱なものだ。日曜日に、行きつけのバーの忘年会で多くの知り合いと接点が持てて、本当に幸せな気持ちになれたのだが、それも時の流れの一節に過ぎない。しかし、その一節が貴重なのだ。その、ちょっとだけ地元の内側に入れたかも知れないという感覚だけで元気がでるのである。

約5割の大卒者が企業に就職して、多くが経済的に成功する。走っている間は、自分を引いて見ることは難しい。現時点で27%の高齢化率は、必ず上がる。企業という居場所を失ったさまよい人はこれから大量に生まれるのだ。地元に根差して生きている人より、はるかに厳しい現実に向かい合うことになる人は多いだろう。

経済的に得たものと引き換えに失ったものに気が付いた時には手遅れになっているかも知れない。今住んでいる所が自動的に地元になるわけではない。移住の覚悟が必要なことを自分の経験から警鐘を鳴らして置こうと思う。