死後の世界の存在は証明できない。しかし、一生、死んだらどうなるのだろうという想像をしたことの無い人は恐らく皆無だろう。
死後の世界の存在は、信仰の問題でもある。どこかで死後の世界はあるんじゃないかと思えば、天国を保証する宗教にすがりたくなるのも分かる。私はキリスト教徒であるが、キリスト教には、かつて免罪符、あるいは贖宥状で、天国を金で買えると扇動した歴史がある。
お布施を積んでも、賽銭をはずんでも、多額の献金を支払っても、あるいは国か信仰のために命をささげても、そんな行為で天国にいける道理が無い。死後の世界との間には断絶があるのだから、この世の価値観がそのまま通用する訳が無い。死を美化してはいけない。
罪と罰も、繰り返し考えさせられるテーマである。昨日の牧師の説教で、罪の結果として罰がある(何か過ちを犯したから天罰が下る)という考え方もあるが、何か罰を受けた時に、その原因となる罪を探りたくなるという視点もあると聞いて、なるほどと思った。今回の台風でも、なぜこの人は犠牲になったのだろうと知人や家族は考えてしまう。それは、その人が天災で(天)罰を受けてしまったのだから、それを引き起こす因果があったと考えてしまうということと同じだ。生まれたての子どもが罪を犯したとは考えられないので、親の罪が子に及んだのでは無いかとか、何かの呪いがあったのではないかと考えてしまう。多くの人は罰の原因を追わないではいられないのである。
新約聖書のヨハネによる福音書の9章に以下のようにある。
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。9:8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」というイエスの言葉と昨日の礼拝説教には連続性がある。生まれつき目が見えないという「罰」を受けているからには、その元となる罪があると思わずにはおられない。そして、生まれつきであれば本人に罪を犯す余地は無い。だとすると親の罪かと問わずにはおられない。しかし、イエスは、誰の罪でもないと言った。
聖書の教えには原罪という思想がある。アダムとイブが過ちを犯したことによって、人は永遠に罪を背負い続ける循環に入ったとする考え方である。そのせいで、人は死ぬようになったと言う。私は、イエスは原罪を否定していると考えている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」という言葉は、罰は罪を原因とするものではない、あるいは原因とするものとは限らないと言明している。誰しも、自分が誤った判断をしたことで、残念な思いをした経験はあるだろう。しかし、残念な思いをしたからには、何か間違ったからに違いないと考える必要は無いのである。罪の結果に死をおくことはできるが、罪を犯そうと、そうでなかろうと死という罰は例外なくやって来る。
そして、死後の世界はこの世に生きている者には見る事ができない。
私は、19歳の時にキリスト教の信仰を告白して、洗礼を受けた。その時に、キリストの死からの復活という科学的にはありえない事象を「私は信じます」と告白したのである。言い換えれば、死んだ後のことは分からないが、死んだ後のことはあって、キリスト教を信じることが死後の人生?に不可欠なものと信じたということになる。
現実の問題に戻れば、死後の復活を信じても何も変わらない。
しかし見える世界は変わる。いくら罰を受けようとも(不遇な環境に置かれていると感じても)、それだけでは終わらない。そして、隣人と一緒に救われたいという気持ちが生まれてくるのである。
神のために死ねという声に従ってはいけない。誰一人取り残さずに生きている世界を目指しましょう。国家や教会を含め、集団との関わりを持たずに進歩は困難だが、集団には扇動がつきものだ。人を介さず、直接神との関係を結ぶ以外に本当の幸せはないのだろう。