第二次世界大戦の反省で世界聖餐日が生まれた

今日10月の第一日曜日はキリスト教の世界では世界聖餐日である。

『世界聖餐日を覚えて』という記事で「世界聖餐日は、1946 年に、WCC の前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐を通してキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。」とある。

ググるまで気が付かなかったが、そう言えば、前に聞いたことがあったような気もするが、全然意識していなかった。

宗教は国を超えることができる。マタイによる福音書22章39節の「隣人を自分のように愛しなさい」という教えは、2番目に大事な教えと書かれている。世界聖餐日は、同じ聖餐にあずかる隣人として愛し合うことが求められていることを思い出しなさいということだ。つまり、もし自分の国のリーダーが戦争をしていたり、それにつながるような行動があったら、その相手国に隣人がいることを思い出して政府に抵抗しなさいということと同義である。私は、かなり単純にこの教えは「善い」と思っている。

現実には、隣人はお互いに愛し合うだけでなく嫉妬したり憎んだりする相手でもある。喧嘩にもなるし、嫌いにもなる。しかし、どれだけ嫌いでも騙したり傷つけたりするのはいけないことだと誰でも知っている。それでも、嫌いな人とは一緒にいたくないと思うのは自然だし、安易に排除してしまう事もある。だから、「隣人を自分のように愛しなさい」を重要性の高い神の命令に位置づけておかないと具合が悪い。

キリスト教国同士の戦争も数限りなくあったから、キリスト教徒が「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守れないことがあるのは繰り返し証明されている。だからキリスト教徒であることは善人であることと同じではない。むしろ、信仰告白をして神に従いますと言いながら、実践できていないわけだから、もっと罪深いと言うべきだろう。中には信者以外を差別するような本末転倒な行為に走る人さえいるのだから同情の余地もない。

聖餐は最後の晩餐を思い出す儀式だ。最後の晩餐の後、イエスは逮捕され処刑されて殺されてしまう。最後の晩餐を共にした弟子たちは、イエスが逮捕され十字架にかけられるのを止められなかったし、自分の身の危険を感じて逃げてしまったのだ。何となく聖餐式でパンとぶどう酒(ジュース)を食しているが、世の秩序を乱すものとして体制側に抹殺されたイエスを念頭において自分たちが抹殺される前に戻れたら、再び逃げてはいけないという思いを新たにする儀式である。

秩序を守るために戦うというのは、実際には権力者が自分を守っているに過ぎず、支持者も権力者の力に日和っている以外の何者でもない。そういうところに留まっていてはいけないと、聖書は注意喚起している。