経営者目線で考える働き方改革と現場目線の大きなギャップ

今日は、デジタルワークプレイスDay 2019というイベントがあった。国際比較で生産性が低い話が話題になっていて、様々な取り組みや関連製品が紹介された。

昨日は、サードワークプレース研究部会の例会があり、サードワークプレース利用者3名の利用経験について一定のフォーマットでヒヤリングをしてディスカッションを行った。

利用者のヒヤリングをした時に強く感じたのは、対象者が良い仕事がしたいという思いだ。たまたま3名とも子育て期間にあり、出がけに子供が粗相をすればそれを優先しないわけには行かないし、優先順位から考えれば、どう考えたって業務より子供の命だ。あたりまえのことである。同時に、子供の命は最優先だとしても、仕事での約束を守り社会人としての信用を維持、強化するのは自分にとってとても大事なことなのだ。これもあたりまえのことである。現実的に考えても、流動性の低い日本社会でキャリアの断絶は生涯賃金の大幅ダウンを招く確率が高い。当事者にとっては死活問題である。子供が優先だったら辞めればいいじゃないかなどと考える人もいる。思ってしまうことは止められないが、ほんの少しその人の立場に立って考えようとしても、なおその持論に固執する人がいるなら、私はとても残念に思う。しかし、(美しい伝統的な)日本の文化は、愛を忠誠心の下に位置付けるから、子供の命より仕事を優先するのが道徳的に正しいとされている。死にかけても出社するのが美談だ。

今日のイベントの方のスピーチを聞いていて思ったのは、結局のところ登壇者の中には仕事を従業員より優先している人も少なくないということだ(控えめな表現)。もちろん、真剣に取り組んでいて、良かれと思うソリューションも準備して、柔軟な働き方をできるように努力しているし、やっている事は変なことではない。しかし、必死で自分の将来をかけて良い仕事をしたいと思っている人の働き手の視点との間には越えがたいギャップを感じたのである。

生産性を上げるためには人材育成に力を入れないといけない。正論である。間違っていない。しかし、経営者の目線は自社に都合の良い人材に改造したいという施策の探索に向かっている。

一方で、善良な働き手は、自分が成長したいと願っている。生きていく力を強くしたいのが目的であって、良い社畜に育つことを望んでいるわけではない。もちろん、給料をもらっている企業に恩義を感じている人がほとんどで、企業側から見て役に立つ人間になることと自分が成長する事が近く感じられる人は少なくない。でも、従業員目線で考えると、例えば最優先が子供の育児であれば、従来8時間かけてやっていた仕事を2時間でやることで役に立つ人になりたいと思う。一方、経営者は2時間でやれるのなら、2時間分の時給以上は払いたくない。働き手からしたら、馬鹿馬鹿しくてやってられないと思うのが自然である。

経営者視点で良かれと思って時短勤務を推奨するのは、善良な働き手にとっては「この人は全く分かっていない」と感じる最悪の提案なのである。今日のパネルでも、良かれと思って導入した制度に当事者からクレームが来た話が出て、「何でなんだ」というやり取りがあったが、やはり根本的に分かっていないのである。まあ、出席者の大半が年長者男性だったから、恐らく想像もできないのだろう。

善良な働き手は、生産性を上げるのには熱心なのだ。ただし、自分が大事にしなくてはいけないのは(子供や親などの周囲を含めた)自分自身である。仕事を子供の命に優先させるようなことができるわけがないのだ。だとすると、会社あるいは所属グループで達成したいことと、従業員が置かれている制約を全部考慮に入れてやれる方法を考えるしかない。言い換えると、経営者は従業員の就業時間が自分のものだと考えるのを止めないといけない時代になったのだ。

高度成長期と違って、労働者は労働時間を経営側に売る時代では無くなったということだろう。時間で測るのではなく、付加価値で測るように変える以外に出口はなさそうだと感じたのであった。

つらつらと考えていると、あまりにも社会保障が弱すぎて、企業に依存しないと簡単に貧困に落ちる制度になっているところが諸悪の根源なのでは無いかと思う。高度人材だけでなく、誰でも雇用流動性が高くなるように制度を変えれば、経営側は労働力を時間で買うことが難しくなる。テレワークは手段でしかない。民の不幸が減り、全体としての付加価値が大きくするためにはITツールや個別の就業ルールに手をつけても足りないと思う。