エストニアのe-residentになって、電子署名・暗号化機能を試してみてその潜在力を垣間見た。その時に法人の署名の問題をどうするのかが良く分からなかったのだが、EIDASのeシールで対応できる事にようやく気がついた。EUでは2016年から法的規則が適用されているのも知った。
漸く、紙の法律の法人の概念にサイバースペースでの解釈が与えられたということだ。制度上、彼我の差は大きい。この差はこの先じわじわと効いてくる。放置すれば日本の凋落はますます加速するだろう。
マイナンバーでもe-residencyでも役所と市民の関係が注目されるが、実際に電子署名、暗号化アプリを使ってみると、個人間での信頼性のある約束と機密保持ができる事に気がつく。当事者が3人であれば3人だけが開封可能な文書を作ることも出来るし、貸金庫のカギを預けるような感じで、内容を知られることなしに信託する事も可能になる。個人の権利を守られるためのインフラとして機能するのだ。
eシールも電子署名も技術的には同じものだが「法人は、組織として権利の主体として、認められた法律上の制度ですが、自然人にある、意思能力や行為能力はありません」という決まりがあるからその署名の意味が違う。
法人内で権限を委譲するのは自然人同士の約束である。しかし法人間の契約あるいは法人、自然人間の契約では有効性が確認できれば良いだけで、法人内の誰が作業したかは関係ない。eシールは紙の法律の法人の概念のサイバースペースでの解釈だ。
EUのすごさは、複数の国が共通ルールを科学的な方法で確立しようと頑張っている所だ。また、「国籍を理由とした差別を受けない権利」が憲章で宣言されているので、国>民で考える事ができない。まず、どの国籍を持っているかに関わらず自然人の権利が守られるように設計しないといけない所が大きい。日本のマイナンバーは、個人の権利を国を越えて見る視点が欠けているところが全く違う。
一方で、その分難しい。その結果、トニーブレアが言ったように「われわれは塔のてっぺんにある部屋の中に閉じこもってしまい、議論されてきたことを一般市民は誰も理解することができなくなってしまっていました」という問題を抱え込んでいる。
「一般市民が理解できないようなこと」は、拒否しようという声が高まると、恐らく多くの人が幸福になれる機会を失う。分からないという事はそれ自身が不愉快なことだが、同時に全てを理解することなど誰にもできない。だとすれば、「信なくば立たず」は非常に重要なキーワードとなる。
「差別を受けない権利」は「差別をしない義務」を伴う。EUあるいはEU的未来は「差別をする権利」を放棄できるかどうかにかかっているのだろう。「差別をする権利」を放棄した方が幸せになれると多くの人が信じられるようになるか否かと言い換えても良い。今は逆風が吹き荒れているが、50年前と比較すれば格段に進歩している。揺り戻しはあっても、今後も良くなって行くだろうと思いたい。