書評:深井智朗著「プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで」中公新書2017年4月15日再版版
2018年5月28日萩原高行
2017年10月9日に修養会で、「戦いのあとの寛容 - 宗教改革と共存の作法 - 」と題して東洋英和女学院深井智朗先生の講演を頂戴した。主に、ご著書の深井智朗著「プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで」中公新書からのお話だったので、再読して所感を述べる。
まず、まえがきの部分で、「1517年10月31日、ルターは熟慮の末、この贖宥状について討論を呼び掛ける「95ヵ条の提題」をヴィッテンベルグ城の教会の扉に貼り出したと言われている。(中略)打ちつけるハンマーの音とともに宗教改革がはじまり…」という教科書の記述がある。続いて、実際には貼り出した事実があると考える研究者はほとんどいないと書かれているところに驚き、さらに宗教改革と日本語で訳されている原語がReformationであって再び形成するという意味で既存の体制の否定(プロテスト)ではなかったことが示されていてもう一度驚いた。
本文では、まず贖宥の宗教的な位置づけ政治経済的な効果について明確に解説されている。ドイツの人達がどれだけの割合で、罪と罰の関係が腹に落ちているかは分からないが、恐らく日本では罪は消えないが、対応する罰を受けることで再び罰せられることは無いという考えに自然に立てる人は少ない。贖宥状は罰を代理で償ったことを証明する書状であって、罪を免ずる免罪符と違うことすら中々理解できないと思う。ドイツでも全ての人が理解しているかどうかわからないが、ホロコーストの罪は決して消えないと少なくとも国のリーダーは主張している。罰を償い終わったか否かについては議論が分かれるが、犯した罪は消えないと考えていて、決して忘れてはいけないと繰り返し主張している。人類がキリストを十字架に磔にした罪は永遠に消えないが、キリストは復活してそれ自身で罰することは無いとしたというのがキリスト教的な罪と罰の理解だと私は考えている。日本では一国の総理が孫子の代にまでその罪を負わせるわけにいかないと主張していて、罪が消えることが無いという価値感を共有していない。脱線したが、当時のドイツの庶民も恐らくそんなことは考えずに、自分の犯した罪により生じる罰が金で償うことができればそれで十分だっただろうと思う。政治経済的には、活動資金源としては非常に都合のよいシステムだが、本当に贖宥状によって償われる罰が代理人に課されているかと考えると受益者と負担者のことを考えれば甚だ怪しい。常識で考えれば天国を約束する詐欺である。単純に言えば、そんな詐欺は駄目だろうというのがルターの主張で、もっと誠実にやろうぜと提案したという感じなのだろうと本書から理解した。
ルターの提題に、バチカンは体制維持に執着して対応を誤った。ちょうど、印刷機の発明により情報革命の時代を迎えていた。聖書がドイツ語に訳され、直接庶民が接することができるものになり、ルターがバチカンの解釈より、聖書そのものにあたって是非を判断しようではないかという問いかけは本当の宗教改革に向かっていく。第3章の神聖ローマ帝国のリフォーム、第4章の宗教改革の終わり?を読み進むうちに、是非の判断の主体が、教皇の座から領主の選択に移っていく過程が分かってくる。しかし、まだ政教分離の段階には至らず、個人が是非の判断の主体になれていないことに気がつく人が出てくる。
第5章の改革の改革では「支配者の教会」と「自発的結社としての教会」が論じられ、統治と教会の分離の過程が明らかになる。これ以降は、現代の状況分析と問題提起が書かれている。直接聖書にあたって解釈するという方針を取れば、不一致が当然となり、不一致があることを前提とした一定の合意と協調、協力が課題となり、資本主義経済、自由主義経済的な市場化の影響を受けることになっていることが分かる。
現代では、キリスト教にもアメリカ的な数が力という価値観が侵入してきている。恐ろしくもある。折しも再び情報革命の時代を迎え、誰もが情報に触れることのできる時代を越えて、誰もが情報を発信することの出来る新たな時代を迎えている。ひょっとすると集団ヒステリーが起きて再びキリストを磔にするような罪を犯すことになるかもしれない。
宗教改革には終わりがない。もちろん、この先どうなっていくのかも誰にも分らない。本書を最後まで読み切った時、キリスト者である読者はそれぞれに自分の意思、教会の行く末に想いを馳せることになるだろう。