「街を間取りとして考える」あるいはABL(Activity Based Living)

hagi に投稿

佐々木典士さんと言う方が、「街を間取りとして考える」という言葉を発したという話を聞いて、衝撃を受けた。私はミニマリストではないが、移動の時の荷物は小さい。この北九州出張では、いつもの軽量バック。冬の欧州2週間でも機内持ち込みだけで隙間が残る。

ここ5年強、コワーキングの事を考えてきたが、現時点の(暫定的)結論はコワーキングは街づくりの一部だという考え方である。コワーキングスペースは、それ自身が独立した事業体と見ることはできるが、その周辺の環境を含めて成立している。例えば、近くに海があるとか、良い感じのバーやレストランがあるとか、相互に関わっている。良いコワーキングスペースがボロボロの雑居ビルに捨て値契約で入ると、そのビルはぞくぞくとテナントがついて、不動産価値が上がり、それを勘違いしてコワーキングスペースを追い出して元の木阿弥という事例もある。コワーキングは人が集まって新たなコミュニティが生まれ、それが周囲に影響を与え、同時に周囲の環境がそのコミュニティに影響を与えるのである。

「街を間取りとして考える」という考え方は、自宅が閉じていないという表明で、自宅の台所を街のレストランに代替してもらうという考え方でもあり、「街を間取りとして考える」人が、自宅から出てくることによって、街に影響を与えているのだ。これができる前提には、信頼がある。ヒッチハイクは信頼の上に成り立っているが、ヒッチハイクが犯罪の温床になっていることが知られるようになると誰も乗せなくなる。安価で信頼できる代替手段は、ある意味、盲信の上に成り立っている。国家が想像の共同体とベネディクト・アンダーソンは言ったが、コミュニティはすべからく幻想である。そして、人生はその幻想の上に成り立っているのだ。

国が与える信用とか、大企業が与える信用とか、そういったものは同じく幻想である。大企業向けの社内金融の貸し倒れ率はむしろ高かったりするし、今WeWorkがメンバーに供与している信用も、いつも詐欺師の標的になる。イタチごっこではあるが、時期と共に担保されるべき透明性が変わる。恐らく、それを真の進歩と言ってもよいのではないか、と、そう思わされた日であった。

佐々木俊尚氏、ライブの迫力はすごかった。

今日、私が気がついたキーワードは、Activity Based Livingだ。別の見方をすれば、それがノマドの本質だろう。

「街を間取りとして考える」は、自宅が閉じていない状況と言うことができる。モノから考えるのをやめると得られる自由を象徴する言葉だが、そのためにはインフラへの信頼が必要だ。Activity Based Livingが受け入れられるためには、まだ時間がかかるだろう。そのヒントは、e-residencyにあるかも知れない。

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