新生活290週目 - 「イエス、弟子たちに現れる〜イエスとトマス〜本書の目的」

今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「復活節第2主日 (2026/4/12 ヨハネ20章19-31節」。3年前の記事がある。

福音朗読 ヨハネ20・19-31

 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


ペンテコステでもこの個所が読まれることがあり、このブログを書き始めてから6回この福音朗読について書いている。昨年はトマスの英語版Wikipediaに触れていた。AD52にトマスはインドの西海岸に上陸したとされている(Catholic Church in India)。その後AD72に東海岸で殺されて葬られたらしい(St. Thomas Cathedral Basilica, Chennai)。チェンナイはエルサレムから5,000km強だから、当時の伝道エネルギーは無茶苦茶高い。確信は深かったのだろう。現在でも、ヒンズー教、イスラム教についでキリスト教徒は7%強とされている。事実がどうだったのかわからない。16世紀にポルトガル人が進出した際に作られた歴史である可能性も否定できないが、私は本当にあった話なのではないかと思っている。やがてローマを席巻した訳だし、猛烈なエネルギーがあったのは間違いない。イスラム教も(ユダヤ教と同じ神でイエスを預言者に位置づけた)ポストキリスト教的な売出しだったわけで、言い換えれば真打登場といった感じで普及していったのだろうと思っている。

トマスは、復活のイエスに会い、ペンテコステの強烈な体験を受けて「これは本物だ」と確信したのだろう。人間イエスがいなくなった後にも影響力を及ぼし続けるということを心から信じたら、周囲に狂信的と思われようとも伝道に励んでも不思議ではない。それにしても、インドまで布教に行ったとしたら、インドに行けという命令を受けたと信じていたのだろう。

イエスが十字架刑に処されたのは恐らく日食があったAD30年4月7日だろう。トマスなどライブでイエスに接していた人がその時20歳程度だったとすると、トマスがインドに渡った時には40台で亡くなった時には60台だっただろう。もう少し上かもしれないし下かも知れない。インドでの布教時にはイエスはもう伝説の人で、身近には感じられなかったはずだ(死後20年経過した人のことを身近に感じるのは難しい)。そういう意味では聞き手は現代人とあまり変わらない。日本でも16世紀にポルトガル人ザビエルが布教してキリスト教が入った。インドの場合はリスタート、日本の場合は初だっただろう。しかし、一定のレベルで定着した。

15世紀にコンスタンチノーブルが陥落しているので、ポルトガル人の布教はリバイバルにあたる。迫害の時期を乗り越えた活動と言えよう。そういう意味では、今日の個所は、いつ踏み込まれるかビクビクしながら信仰を守ろうとした15世紀頃の欧州のキリスト教徒や島原の人びとの姿に近いものかも知れない。布教に従事した人たちの上に、多分、霊は降った。ペンテコステの記述のような劇的なことがあったわけではなさそうだが、霊は降って信仰的な確信を得たのは間違いないだろう。

復活節はイエスの死の無効化を祝う意味もあるが、同時にビクビク期の始まりでもあった。長い時が経過してから振り返れば栄光の日だが、その時期を生きる(今を生きる)人にとっては、決して栄光の日ではない。信じていても、つねに恐れを感じている日々は続く。

キリスト教では誰もが、(インドのような)未知の地に布教するように推奨されている。霊は降る。降った時に目を覚ましていなければいけないと思う。ただ、私は何度でも霊は降ると思っている。あなたにも霊は何度も降っている。見逃さない方が良い。

※画像は聖トマスを殺害した槍の聖遺物