今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第26主日(2026/9/27 マタイ21章28-32節)」。3年前の記事がある。福音書に並行個所はない。Wikipediaにはふたりの息子のたとえという記事がある。
第二朗読 フィリピ2・1-11
1〔皆さん、〕あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
《6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。》福音朗読 マタイ21・28-32
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕28「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
Wikipediaのふたりの息子のたとえには、「ここで引用した聖書の本文は口語訳聖書であるが、口語訳聖書と新共同訳聖書では内容が異なり、兄と弟の発言が入れ替わっている。これは元の古代ギリシャ語のテキストが2種類あることに起因している」とある。福音のヒント(1)の写本の記述がある。並行個所が無いので、もともとどういう話だったのかを調べるのも困難だが、ユダヤ人と異邦人の話になぞらえるのは私は無理筋なのではないかと思う。
32節を読むと、祭司長や民の長老は「いやです」と答えて「出かけなかった」という話となり、兄とも弟とも一致しない。改めて読むと、全体としては、筋が通っていない。洗礼者ヨハネを父親の位置におくと、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」が命令で、その洗礼を受け、その多くはその命令を守ろうとしただろう。イエスに従うのが具体的な行動ということになる。「承知しました」と答えて「出かけた」という話となり、兄とも弟とも一致しない。とはいえ、安易に信仰告白して行いが伴わないよりは、最初は否定的でも結局為すべきことを為した方がマシと言われればそのとおりだろう。否定している人にも呼びかける個所と捉えれば32節の記述があったとしても話は通る。福音のヒント(2)の「きょうの箇所の前半と後半は本来、別々の話だったのではないかと考える人もいます」に納得感がある。
今日の第二朗読は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」の具体的な行動、あるいは姿勢について書かれているパウロ書簡の個所と考えて良いだろう。福音のヒント(3)で個所は違うが悔い改めの言語μετανοέωに触れている。この言葉はマルコ伝では1:15でイエスの言葉として記されている他、6:12の弟子の派遣のところで使われているだけ。ルカ伝では9回、マタイ伝では5回使われている。書簡ではニコリ12:21で1回だけ使われている。悔い改めという概念は、イエスが強調したわけではなく初期の教会が提唱したと取ることができるかも知れない。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。」は、人権の原点と捉えることができる。福音朗読の「後で考え直して出かけた」というのは、自分ファーストから、人権ファーストへの転換を意味すると考えて良いだろう。
洗礼者ヨハネは、メシアを強いリーダーだと思っていたと思われ、イエスはヨハネを預言者と認めて洗礼を受けて弟子入した。ヨハネは、イエスが来たるべき人であることに気がついただろうが、予想していたメシア像と異なるため、混乱しただろう。しかし、イエスは本物だった。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」が理想的な姿だとパウロは述べている。スーパーマンのように世を覆しはしなかったが、死後も時間をかけて、世の中の常識を変えた。ただ、単純に人権が伸び続けるわけではなく行きつ戻りつする。へりくだって見ることなく自分が正統に評価されていないと思うと「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることができなくなって、強いリーダーを頼って破滅に至ることは繰り返し起きている。
人権重視より日本人ファーストだとイエスの教えを否定しても、後で悔い改めて、それぞれで取り組める範囲で利他的な行動ができたら良い。私は、今日の個所がイエスがそのとおり発言したとは思わないが、社会的弱者を下に見るな、社会的弱者に見える人の良い行いを神は見ていて、社会的弱者であることで切り捨てたりしない、逆に自分は正しいと誤解している社会的な立場の高い人のことも同じように見ているというメッセージはイエスが繰り返し発信したものだろう。
教会も気をつけないと排他的になり、道をはずすリスクがある。内輪の結束力の高さは、危険でもある。リーダーや、古参は特に気をつけなければいけない。
※画像はGerard David: Triptych of Jan Des Trompes、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けるシーンだ。ヨハネは当時の有名人で、ヨハネが道を整えた、聞く耳を整えたことで、イエスが教えを説く上で助けになっただろう。