今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第13主日 (2026/6/28 マタイ10章37-42節)」。3年前の記事がある。
福音朗読 マタイ10・37-42
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
恐らくこの個所の原点となるマルコ伝10章には以下のように書かれている。
29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
マルコ伝は決断後の報奨的な感じなのに対して、マタイ伝は強制という感じ。ユダヤ教の伝統を捨て、キリスト教に帰依せよ。さもなくば…、的な匂いがする。
3年前の記事の書き出しでは「なかなか理解が難しい箇所だ」と書いている。また「福音のヒント(1)でもカルト宗教のような危険性を感じさせるとある」とも書いている。マタイ伝が(ユダヤ教の)ユダヤ人を念頭に書いているから、こうなったと考えるのが妥当なのではないかと考えている。
この個所は、若い頃からずっと気になっていた。3年前の記事は少し長かったが、すなおな気持ちが書かれていると思う。
アメリカのキリスト教の量的な主流はは福音派で、かなり原理主義的な傾向が強く、私から見ると悪い意味でキリスト教的な教えを強制しようとする傾向が感じられる。法律で堕胎手術を禁止したり、男と女しか存在しないことにしようとしたりしている。イエスは一人の人を他の誰でもない一人の人として見ていて、律法に違反しているからと言って切り捨てたりしない。一方、信仰者であっても人によっては本来教条的に正しいことをすることに最大価値を置き、家族であろうが意見の違う人は切り捨てて、信仰を守れと強制してしまう。私は、それはイエスの教えに反していると思う。
アメリカ憲法の前文をGoogle訳すると以下のようになる。
我々アメリカ合衆国国民は、より完全な連邦を形成し、正義を確立し、国内の平和を確保し、共通の防衛を提供し、一般の福祉を促進し、そして我々自身と子孫に自由の恩恵を確保するために、アメリカ合衆国憲法を制定し、確立する。
トランプのアメリカの現在、「一般の福祉を促進し、そして我々自身と子孫に自由の恩恵を確保する」という基本原理が問題となっている。特に「一般の福祉」の範囲の解釈が問題だ。「一般の福祉」の一般は全ての人類、あるいはさらに植物や菌まで含めたあらゆる生命と考える。人によってはそれは白人男性のみを指す。「自由」の恩恵を確保する範囲が問われることになる。イスラエルの民が100人程度拉致されたら、もちろんその自由が失われたのは紛れもない事実だろうが、ガザで数え切れない人の生きる自由がイスラエルの指導者の命令で失われたものも事実だ。
この事実をどう解釈するかによるが「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」は先の「一般」の対象をイエスの教えより重視する人はわたしにふさわしくないということだと今の私は考えている。つまり、内輪の論理を優先するものはクリスチャンとしては適切とは言えないということになる。一番わかり易い例として家族について触れているが、基本は「誰一人取り残さない」という意味だろう。トランプの出現でSDGも地球環境問題も、命を脅かす感染症問題解決も停滞しているのは明らかだが、「一般」を狭くおけば、そんなことは俺には関係ねえという話になる。
この個所は、身内愛の危険に切り込んだ話とも取れる。マタイ伝著者には痛い話だったのではないかと思う。その言い訳として「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」を加筆したのではないかと私は考えたい。イエスは「正しい者」という考え方を否定していると思う。
自由は「自分の希望を通す」という意味を持つが、「一般」が全ての人を意味するとすれば、「他者の自由を侵害しない範囲で自分の希望を通す」という意味になる。世の中にはいろいろな人がいるから「他者の自由を侵害しない範囲で自分の希望を通す」だと恐らく何も求めることはできないだろう。それでも、長い時間をかけて奴隷を所有する自由は否定された。それに対して自由が損なわれた(逆差別)という人は現れる。トランプ、安倍・高市的な民主主義国でその声が支持されれば(ガザやイランのように)理不尽な死が発生する。日本は先の戦争で「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」を含む長い憲法前文を制定することができたが、支配し被支配を現実として受け入れよという声の前に再設定した日本の基本原理がアメリカ同様に書き変えられかけている。今こそ「恒久の平和を念願」するべきだと思う。別に祈念する場所はキリスト教会でなくて良い。靖国神社でも構わないが「恒久の平和を念願」が何を意味しているのかを真摯に考える必要はある。インフルエンサーやフェークニュースで儲けるようなメッセージ騙されることなく、自分と異なる意見にも耳を傾けて自分の能力の限りに追求して祈ることを推奨したい。
それは、まず神の義を求めよという教えと等しいが、決して容易な教えではない。
※画像はアメリカ合衆国憲法原本