新生活148週目 - 「「毒麦」のたとえ〜「からし種」と「パン種」のたとえ」

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今週も福音のヒントに学ぶ。今日の箇所は「年間第16主日 (2023/7/23 マタイ13章24-43節)」。毒麦の下りは平行箇所がないが、パン種の話はマルコ伝4章、ルカ伝13章に並行箇所がある。

福音朗読 マタイ13・24-43

 24〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」 
 31イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」33また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」 
 34イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。35それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 
 「わたしは口を開いてたとえを用い、 
 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」 
 36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 
40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

マタイ伝はたとえの内容解説が丁寧で、マルコ伝、ルカ伝は直接的な書き方はしていない。福音のヒント(1)では「(37節以降の)この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか」としている。マルコ伝の記述を読むと終末の裁きの匂いを強く感じることはない。マタイ伝を読んでいると、天国は死後の世界の話に感じられるが、からし種の話は、この世の変革の話と取ることもできる。福音を伝えるとやがてそれが価値観を変化させ、世界を変えてしまうと解釈することも可能だと思う。

マタイ伝は新約聖書の一番前にあり、読みやすい、解釈しやすい書物なので、イエスの教えを学ぶ時の基本形として悪い言い方をすれば刷り込まれてしまう。使徒信条には「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と書かれていて、イエスは裁判官として再臨することを告白する内容になっている。この告白は結構恐ろしいものだ。裁かれることの無いように生きることが求められるので、減点主義になりやすい。人を善人と悪人に分類して、終末に悪人に分類されればアウトということになる。私には違和感がある。一生、善いことしかしないで生きていくことはできない。善行、悪行を量で量って偏差値で合否を決める感じとなり、そのギスギスした感じはどうもイエスの教えになじまない。むしろ、組織の論理で、教会の正統性を維持するには有効だろうが、愛の価値観とは相容れない感じがする。

現実世界では、権力者が権力を獲得あるいは維持するために、好ましいとはとても思えないような行動を取っていると感じることはしばしばある。一番わかり易いのは嘘をつくことだ。一度も嘘をつくことなく長生きできる人などいない。誰にも嘘はあるが、権力を有しているものの嘘は大きな被害を生む。戦争を招くこともあるし、薬害や環境汚染を招くこともある。旧約聖書では、権力の失墜は悪行の結果という考え方に立っていて、善行を重ねていれば豊かになって権力も手にすることができるという因果応報思想が中心にある。神は全軍の主という考え方で、従わなければ祟る神である。この世の権力のその奥には神の御心があるから、従うのが基本という考え方が導かれる。権力争いの結果は神の裁きということになる。人間が神の判断基準に一致する社会的な判断を行うために律法が制定され、律法学者がその研究を進める。その世界でも競争があり、権威を得るには競争に勝たねばならない。

イエスは律法学者に冷たい。権威、権力を得る程に競争強者であっても、自分に都合の良い解釈を与えたり、事実を曲げてしまうことの無いように生きるのは難しい。権力のない影響力も小さい人間を裁き、権力におもねることは律法学者にとっては自己の権力の維持、向上には有効な選択になる。イエスはそういう権力闘争の向こうに天国はないと言ったのだと思う。逆に、競争弱者が救われることはないという常識を否定した。

私は、競争弱者も競争強者も公平に扱われるという考え方が「からし種」ではないかと考えている。福音と言い換えても良い。差別される側から差別する側に転換する闘争ではなく、差別する側も差別される側もない社会は実現可能という考えを伝えたのだと思う。

勝ち馬に乗るという考えではなく、公平な社会を目指そうという考えにほかならない。公平な社会の実現には律法学者は必要になるから、堂々巡りと言えないことはないが、ただ過去の蓄積の上に積み上げていくのではなく、得られた知見に基づいて公平の増大に向かうような体制を作り上げていけという考え方だろう。権力を持っている人の嘘は見逃されてはいけない。

それでも王権神授説や英雄待望論は消えない。イエスあるいは神を担いで権力を維持しようとする考え方も同じだと思う。プロテスタントの台頭は福音の本質と言って良いだろう。カトリックがだめだとは思わないが、序列化は脆弱性になる。

毒麦のたとえをイエスが語ったかどうかはわからないが、イエスは勝ち馬に乗るという誘惑に完勝することはできないと見きっていたのかも知れない。福音を伝えても、同時に権力の誘惑にもさらされる。私には、2000年を経て確かに人権重視の思想は定着してきているように見える。生まれや地位に関係なく、差別されることのない権利を有しているという考えだ。

終末の裁きがあるかどうかを生きているものが証明することはできない。教会に属している以上、使徒信条の「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」を無視することはできない。一方で、その盲信は律法学者の跋扈を招きかねない。

力に頼る人はいなくならないという現実を考えれば、福音のヒント(5)の「科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考え(があること)」を廃することは現実的ではない。しかし、人権思想と愛が育てば、力の濫用に対する抑止力にはなるだろう。

終末の裁きを恐れて自制するのではなく、今暮らしている社会を良くするために一歩を踏み出す方が良い。福音のヒント(3)の「罪びとをすべて排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑に負けないようにするのが良いだろう。排除で道は拓けない。

※画像は、Wikimediaから引用した"But while men slept, his enemy came and sowed tares."。『敵の仕業だ』という記述から導出されるイメージだが私にはちょっとしっくりこない。むしろ「科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しよう」という視点で敵を排除しない形で対応したい。