The June 2022 issue of IEEE SpectrumにXEROX PARC’S ENGINEERS ON HOW THEY INVENTED THE FUTURE—AND HOW XEROX LOST ITという記事が出ている。記憶が確かではないのだが、私が富士ゼロックスの助けを借りてPARC(パロアルト研究所)を訪問したのは、多分1990年代前半じゃないかと思う。シリコンバレーの聖地の一つという認識はあり、ALTOを見たような気もするが、猛烈なインパクトがあったわけではない。しかし、この長い記事を見始めたら、止められなくなってしまった。
私がコンピュータアプリケーションズ(現CAC)に入社したのは1984年。確かまだ300人になっていなかった頃だと思うが、今振り返ると本当に挑戦的な会社だったと思う。新人研修はHP3000だったと思う。J-Starが飯田橋のデータセンタービルに設置されていて、イーサネットでVAX-11にも接続されていた。IBM 5550が部門に1台配置されていた。1987年にはSonyのNews(参考記事)を導入していた。今思うと、本当に幸運だったと思う。株式会社ディスコでアルバイトをさせていただきながら、君にはCACが合うと思うよというアドバイスを受けて、当時学生研究員で通っていたIBMの就職試験を受けるのをやめて就職を決めた。その後29年間のCACでの経験はCACの諸先輩やお客様のおかげであるとともに、PARCのおかげだと思うのである。
当時のイーサネットは10Base5でトランシーバーと呼ばれる機器を同軸ケーブルに噛ませていた。同軸ケーブルのことを(伝送)メディアと読んでいて、空中ではないが、複数のトランシーバーが同軸ケーブルをメディアとして高周波を送受していることを学び、理解した。一本の同軸ケーブルでその瞬間に通信(発信)できるのは基本的に2つのトランシーバーのみで、同時に発出を始めてしまった場合の対応が工夫されている。接続トランシーバーが増えると衝突が頻発するようになりネットワークのスピードが落ちる。まだ、何が起きているのか想像できるような時期だった。トランシーバーでネットワークに流れているのを拾う(盗聴する)のは容易で、イーサネットで流れている電文は丸見えだったから、パスワードも拾える時代だった。Unixでは、既に平文のパスワードは記録されないようになっていたが、ネットで拾えば取れてしまうような世界だった。記事の「Networking: The Story of Ethernet」の節を読むと、アマチュア無線の絡みが出てくる。デジタルデータを音に変えて送って、受け取った方が音を解析してデジタルデータを復元している。無線技術だから雑音が混入するわけで、復元に失敗するケースがあり、誤り検出、誤り訂正の技術が使われることで実用化に至っている。電話は交換機を介して、2台の電話をつないで通信するが、イーサネットは一本の伝送路を時分割で使うという発想の転換の上に成り立っている(ちなみに今の電話機は相互に線でつながっているわけではない - そもそも携帯電話には線がなく、全てはデジタルの世界で仮想化されている)。普段使っている分には、意識することはないが、RARCの研究成果の上に私達の生活が成り立っている。ルーターが利用されるようになって、今のインターネットが機能し始めたのは、1982年頃とされているが、LANがイーサネットで成功しなければ、WANもインターネットも来なかったかも知れない。
「Xerox PARC’s Charter」節を読むと、私がCAC入社した頃には、ブレークスルー技術は概ね確立されていて、ちょうど第二の波が起き始めた頃だったのだろう。スタンフォード大学を初めて訪問したのが1989年でインターネット推進室の室長に就任したのが1994年。Windows95のヒットもあって、一気にSI案件にインターネット関連技術、その多くはPARCで芽が出たものが実用されていった。2000年に入ると、銀行でさえ本格的に利用し始めるようになったが、実用化が進むとフェーズが変わる。
PARCの場合は、研究者から視て実用化目前に見えても、経営者から見るとその価値がわからないし、儲けに変えることができない。PARCの研究者がみな成功したわけではないが、離散しながらも相互に関連して新たな事業が立ち上がっているように見える。
PARCの記事を見ていると、短く見て10年、長めに見て20年、時代を変革する人たちの集積がそこに起きたように読める。そこにいられたか否かは多分に運だが、そこにいたことで才能が引き出されることはあるだろう。
冒頭の画像は2001年5月末、サンフランシスコ国際空港側の多分Embassy Suitesから見た夜明け頃じゃないかと思う。その後9.11で景色が変わった。ASPに主に取り組んでいた時期で、多大な事業資金を必要としていたが、所詮はただの会社員だった。ポストPARCの時代は、今も続いている。PARCが加速させた時代の変化は止まってはいない。まあ、思い出語りをするようでは焼きが回ったと言うべきだろうが、私はまだ時代を動かす側に立ちたいと思っている。