マタイによる福音書に裁きの記事がある。
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
一週間ほど前に3年ぶりにラトビアのリガを訪問した。3年前は雪の降る中でロシアから流れてきたという体の大きい人に少しで良いから恵んでくれ、温かいものが食べたいのだ、と言われてコインを渡した。嘘には感じられなかったからだ。
今年も数人の物乞いにあった。写真にほど近いGrēcinieku ielaで老婦人がカップを持って物乞いをしていた。ちょっと気になったのだが、そのまま通り過ぎた。直後に不思議なことに福音書の記事が頭に聞こえてきたのだ。やっぱり極少額のコインでもカップに入れようと思って引き返したら、既に彼女はその場にはいなかった。
裁きの時に「お前は、わたしが飢えていたときに食べさせなかった」と言われても申し開きできないと思った。その夫人が本当に「最も小さい者の一人」だったかどうかは分からない。そして、その時もっていたコインは自分のものだから、出す出さないも自由だ。しかし、ここは出すべきなんじゃないかと迷った時に見送ったのは私には残念なことである。
自分がもし本当に困った時に物乞いがやれるだろうかと考えると相当ハードルが高い。恥ずかしいだろうし、黙っていればゼロ、その後一人ひとり声をかけてお願いするかも知れないが、99%はNoで心が折れるだろう。その段階を過ぎたら、もう祈りになるのだろうと思った。自分の力で何とかお金を得ようと思う段階から、もし今日生きていても良いと神様がお許しになるのならきっとどなたかがお金を下さるだろうという段階になるのかも知れないと感じたのである。
本当のことは分からない。中にはプロの物乞いもいるだろうし、経験のない自分には分からないことだ。しかし、その瞬間に私は神の存在と自分の罪を感じたのである。
物乞いをする必要のない世の中を作りたいと思うが、道のりは果てしなく長い。