教会堂で礼拝を持つということ

hagi2020/09/06(日) - 11:50 に投稿
2019年3月24日日曜日の礼拝堂

今日、しばらくぶりに私が所属する砧教会は会堂の扉を開け、牧師は在宅説教ながら会堂での礼拝が再開した。

役員会からも牧師からも私にとって納得の行くような説明は皆無であった。きっと誠実な判断の上に適切な選択がなされたのだろうと思うしか無い。

会堂で集まって礼拝がしたいという思いが少なからずあることは分かっている。今まで長年そうして来たからだろうか?それとも、信仰の友と同じ場所に集いたいという思いだろうか?あるいは教会堂には何らかのスーパーパワーがあるということだろうか?
私は、教会堂には偶像的な価値あるいは力があると思っている。私の中では仏教?の数珠や十字架のペンダントなどと同じ位置づけにある。形あるものを見ることによって今ここに存在しないものの存在を想起することができる。宗教的なこと以外でも、写真を見て、頑張らなくちゃと思えるケースは確かにある。偶像には人を動かす力があり、悪い方向にも良い方向にも働くことがある。無教会主義は事実としてこれまでのところ教勢を伸ばせているとは言えないし、偶像崇拝の禁止はこの世の宗教組織にとっては鬼門だ。何とか、教義に反しない形で偶像を使ってマーケティング活動を行う。教会がひと目で見て教会とわかるのは建物に特徴を持たせているからであり、そういう形、力を用いなければ福音を伝えるのは困難だ。

私は、今、会堂で集まって共に礼拝を持ちたいという「熱い思い」は何かおかしいと感じている。私自身、会堂で集まって共に礼拝を守ることで信仰的な充実感を感じるし、会堂に通う回数が減るとキリスト教の教えからも遠ざかってしまうように感じる。しかし、現在の感染症に対峙する時、明らかに会堂で集会を行うことには大きなリスクがある。「熱い思い」でリスクを無視するのは馬鹿げている。もちろん「熱い思い」を押さえつける行為にもリスクがある。ただ、その方向に舵を切ると、排他的になってしまう。リスクを犯して礼拝に出る人は偉い、今までと同じ習慣に留まるのが正しいという考えに堕ちてしまう危険がある。一歩間違えれば、コミュニティを伝統あるいは民族に結びつけて語るようになって差別さえ始まってしまう。差別を区別と呼んで内側と外側に隔ての壁を作ってしまえば、今の保守派をつなぎとめることはできるかも知れないが未来を失う可能性を否定できない。

教会堂で礼拝を持つということにはどういう意味があるのだろうか。私は、今の時期に教会堂で礼拝を持つという運営方針選択は百害あって一利なしと考えている(運が良ければ利はたくさんあるかも知れないし、悪ければ死人が出るかも知れない)。大きな環境変化が生じている今こそ、礼拝を守ることの本質は何か、福音とは何かを追求すべきだろう。新来会者を念頭において考えれば、福音を聞きたければまず会堂に集まりなさいという姿勢は感染症問題を抱えている時期にありえない選択だと思う。人に会えないつまらなさや孤独がある時期に甘い囁きではなく、別の道を示せてこそ本物だと思っている。

この世的には、今は不要不急な集会はやめなさいという時期は過ぎ、よく考えて開催しなさいという状態にある。開催主体も出席者も主体的に判断すれば良い。ただ、私は、教会運営には決断過程を包み隠さず開示できる透明性を期待している。そういう意味で今の教会の運営には大いに疑問を感じているが、相変わらず牧師の説教は素晴らしい。以前も今も、一回の説教で違和感を感じるポイントがたいてい何点かはあるが、この牧師の説教を聞き続けたいと願う思いは揺らいだことはない。教会堂に行かなければ聞けないという未来が来たときに私はリスクを承知の上行こうと思うかはその日がこなければわからない。また、主日礼拝の本質は説教にあるのかと問われれば、即答する答えはもっていない。

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