砧教会のホームページの作成に関わった

hagi2019/03/25(月) - 08:47 に投稿
砧教会ホームページ

昨日、砧教会がホームページをリリースした。

4月になると、キリスト教主義の学校の新入生が教会学校に来る。保護者の人がどのような教会なのかを知ってもらえるようにすることを念頭において構成を検討した。とにかく、さっさと公開することを優先したので、まだまだこれからページを足していく予定だけれど、最低限の情報を掲載して公開した。

私は、砧教会(教会学校)に通い始めてから約50年、途中欠席だらけの時期もあったりしたが、2,000回以上は足を運んでいると思う。教会学校時代からずっと内側にいるわけで、外から教会がどう見えるのかという客観的な視点はなかなか持つことができない。個人的には、研究色の強い教会だと思っている。時に、礼拝の説教が大学の講義のようだと言われる。毎週のように、礼拝説教で、この聖書の箇所にはこういう読み方があるのかと驚きと気づきの機会を与えらている。心地よい救いのメッセージというよりは、進むべき道をそれぞれが探す時間のように感じられる。

コンテンツのドラフトを作成するにあたって砧教会をどう紹介すれば良いのかを深く考えた。例えば「砧教会のあゆみ」のページを作成するにあたって50年史を読み直した。初代牧師は障がい者に向けて「信仰とは自ら立ち上がる意思と力を与えるものである」とその考えを述べている。自分のおかれた境遇を嘆いてあきらめてしまうことなく、信仰を得て自立していく道を説いている。子供の頃、いやかなり歳を重ねてからもだが、障がい者の人は見た目や挙動が普通の人と違うために同じ人間には見えなかった。もちろん、同じ人間であることは分かっているのだが、コミュニケーションをとるのが難しかったり、介助が必要なのが面倒だったりして、自分の日常の外側にある存在と考えてしまうのである。障がい者の方から見れば、私の感覚は、同じ人間として認められていないという悲しさ、寂しさにつながるものとして自然に伝わってしまう。可哀そうな人だと思う事は、それ自身が大変失礼なことなのだ。可哀そうな人だと思われている事に留まってしまうと、自立をあきらめてしまうかも知れない。

現実社会は、分を知れという言葉に代表されるようにあきらめさせ、メインストリームに属する人に有利な方向に動こうとする傾向がある。排除を肯定するのだ。1961年の日本では、障がい者は哀れむ対象ではあったとしても同じ人間として認められてはいなかったのだと思う。その時代に「障がい者と健常者とが分け隔てなく、一体となって信仰に励む教会」という姿を目指したのが象徴的だと思う。

目に見える障がいは人種と同様に差別を助長するが、実際には不自由な点のない人間などどこにもいない。2019年度の教会方針では、「一人一人の人生は、世のすべてとつながって、創造から終末(完成)への途上にあり、創造主の「霊」によって今を生かされている。そしてその命がすでにキリストに贖われたことを深く思い、信仰生活と教会生活を豊かに送る」という文を採択した。難しい文章だが、「一人一人の人生は、世のすべてとつながっている」という宣言は、「障がい者と健常者とが分け隔てなく、一体となって信仰に励む教会」の現代版としても読める。

読み込めば、砧教会はどういう考えに立って運営されているのか見えてくる。牧師の説教も牧師紹介から見られるので、「聖書を学び、キリスト教の基を確かめつつ、歩む」という4番目の標語についても実践されている事が分かる。

しかし、フロントページを見に来て下さった方に対するキーメッセージはまだ提示できていない。分断の時代、小さくても確かなメッセージを発信したいと願う。

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